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7月, 2022の投稿を表示しています

『僕が飛びはねる理由』 誰のための表現か、誰のための命か

  コミュニケーションというのは、どんなに同じ言語だとしても一種の翻訳作業だと常々わたしは思っている。 だから極力誤解の生じないようにと、あらゆる表現方法を駆使してわたしは喋る。喋り続ける。 時々一体わたしはどうしてこんなに努力しないと思いが届かないのかと途方に暮れることもあるけれど、現実的に日常を社会的な福祉サービスを受けながら生活することとはそんなことが必須であるに違いないと思っている。 だから、割といつもものすごく実はわたしは疲れている。 阿吽の呼吸などというものは意外と例外のような奇跡の上にしかないのかもしれない。 そんないちいちを言葉にすることはほとんどないのだけれど、このような言葉を尽くすわたしですら大いなる誤解があちこちに生まれるのだから、共通の言葉を持たない自閉症の方々の思いというのは並大抵には伝わりにくく、さぞかし孤独な中でいるのだろうと昔からわたしは胸が痛かった。 わたしにとって感情というものはとても大切で、正直なところそれをどれほど自然に振る舞って許される空間であるかが、本当に幸せな空間なのかもしれない。 今までの人生を振り返っても、そのような空間はどこにもなかった。 わたしの思いはいつも社会にとって邪魔であり、つまらないものであった。 福祉サービスを受け始めてから、当事者の希望を大切にしますとどの支援者も言ったけれど、実際には意外と気を遣っている自分にも気づいていた。 そして思ったよりそのいちいちの事業者や役所までもが『こちらにも都合がありまして』とあちこちの都合をいうものなのであった。 そんな方々の都合を聞き入れないと支援が行われなくなる不安、そんな時の気持ちが一番嫌だった。 夜寝る前に寝転んでいたら、気持ちは休まりたいのに体がむずむずして眠りにくいことに気づいた。主治医によると『制約の多い生活をしてるからストレスによるもの、きっとずっとあったはず』とのこと。 なんてこと!知らない間に身体の中で暴れられない暴れん坊を飼っている気分だった。 暴れん坊を大人しくさせる薬はあるのだけれど、それを服用することがわたしの人生にとっての『解決策』なのか、まだまだ疑問は尽きない。 数年前、この映画が作られたきっかけになった本が話題になった頃、NHKのドキュメンタリーを見た。言葉って何だろうかとたくさん考えた。 この映画はきっと画期的ではあるけれど...

『マンチェスター・バイ・ザ・シー』 喪失と贖罪、そして再生までの静かな物語

また、初めて観た後に書いたレビューより。 素晴らしい。スタンディングオベーションの気持ちがわかる。 ただ、この映画を身終えてすぐにそうなるわけではないけれど。 何より配役がもう、バッチリなのだ。 常々ケイシー・アフレックという人は、あの猫背と話し方で、なんとも頼りないような、誰かが手を差し伸べたくなるような、そんなキャラクターがぴったりだと思っていた。 つまりは弟のキャラクターなのだけれど。 この映画での兄は、絶対的なほどに素晴らしい頼れるアニキだったのだが、突然亡くなる。亡くなるほどの持病があってもそれを常に意識するのは本人くらいで、意外と周りの人は元気な日々が続くほどに、あたかも治ったかのような錯覚に陥るものだ。 そんな兄の知らせを受けて帰ってくるのが主人公のリーだが、マンチェスターがまた田舎の漁師町といったふうな、街中が知り合いなのだ。 世界中どこにでもあるんだなあと思った。 耐えられないほどの過去を持つ弟は、お互いに言いたいことの言える兄の息子と、しばらく過ごすことになる。 とにかく、描写は抒情的だ。 セリフは多くはなく、いわゆる行間を読めと言わんばかりに、間をとった会話が多い。 リーの過去は割と早めに出てくるが、その時点で、これは無理だろうなとわたしは思った。むしろ、弟だからというにはあまりある、リーの無気力で投げやりな暮らしぶりの理由がはっきりした。 ただ、今はそうだけど、彼は全てに対してそんな無気力なわけではない。閉じこもるのも全ては自分の話だけであり、残された甥にはとにかく優しい。口論はするけど、なかなかいい関係なのだ。 しかし、甥も思春期だからか、一緒に暮らしてほしいの一言がなかなか言えない。 リーには分かっているのだけど、同時にリーが住み続けるのが難しいのも理解しているからだ。 住めばいいのに、というにはあまりにたいへんな土地がある。 いわゆるトラウマでもあるし、それはどんよりとまとわりつく空気が息苦しい場所になる。 息苦しい場所に住み続けるのは、もはや動物的に難しい。 終盤に元妻のランディに言われる、 「あれからあなたは病んでいる」というふうなセリフがある。 責め立て合いながらでも、誰かと一緒に乗り越えることもあるが、どうしてもできないこともある。 たしかに、甥のパトリックは、リーがいれば早く乗り越えられるのかもしれないが、リーには無理。 治療...

『ブリット=マリーの幸せなひとりだち』 心の勢いを信じてみる、わたしがわたしを信じてみること

この身に起こる まさかの出来事は、さっさと無視して切り替えたほうがいいに決まっているのに、たいてい体がフリーズして結局振り回されてしまうのだ。 そんな時に知るかボケ!と石ころでも蹴っ飛ばして、さっと切り替えることができるならどんなにいいだろうか。 今回の主人公、ブリット=マリーはそんな一念発起をした。ほとんど勢いで生活をガラッと変えたのだけれど、彼女は63歳ということらしく、それだけでまずほほうと尊敬してしまうのだ。 おおかたにおいて、その一念発起が歳と共に成功することがないと決めつけて億劫になり、我慢するものだからだ。それだけ彼女にとって大きなまさかだったのだろうと思うのだけれど。 ただ、彼女はすごく真面目だった。真面目に子どもたちと向き合って一緒に体当たりする。 そんな大人が意外と少ないのもこの世の常である。 思い起こせばわたしも子どものころに一人の人間として接してもらえた大人は極端に少なかった。今もそんな風潮はあるのかもしれない。その子どもたちのサッカーチームを引っ張るヴェガという女の子がいい友だちになっている気がする。子どもでも色々苦労をすれば色々学ぶ。そしていいソウルメイトになれる気がするのだ。まだ人生の半分ではないかとブリット=マリーにいうところで思わずそうなのかと何度も思ってしまった。 この頃人生のカウントダウンの最中にいる気がしてならなかった。ちょっと前までは、やりたいことがあっても、いずれやれる時が来るとじっと耐えてきたけれど、最近はそう考えることを自分に許せなくなっていた。もう諦めないといけないのかもしれないと、心の奥底がどんなにそれを拒絶しても、無理矢理そう思わなきゃいけない気がしてきていた。必要のない我慢もしたいとすら思えなくなってきているし。全てがそういう『お年頃』だというだけの理由でそんなふうに思って焦ってきていたのだ。 でも少しわたしより年上のブリット=マリーにまだ人生の半分ではないかという人がいてよかった。今でもあまり長生きしたいと思わないけれど、それでも少し嬉しく思った。どうしてだろうか。 そう思えてこそ、一日ずつよと自分に言い聞かせながら眠りにつくブリット=マリーの地道さが強く生きてくる。そうだったのか、それでいいのかと見習いたく思った。 あと、久しぶりにサッカーを見て応援することまでやってしまった。話に出てくるリバプールの試合を...

イカとクジラ 少年からオッサンへの痛烈な拒絶に至る一つの物語

  子どもの時に食べられなかったものが大人になって美味しく感じるようになることがある。 割とそれを『大人になったという成長の証』のようにいうことがあるようだけれど、実は味覚というのは赤ちゃんの時に最も過敏で、歳をとるに従い鈍麻し、それゆえに食べられるようになったということらしい。 つまり、大人はただ子どもが鈍感になっただけの存在なのかもしれないと思うと、偉そうに激しく威張る根拠はあるんだろうかと再び首を傾げたくなる。 ま、そういうわたしもすっかり鈍感な大人になってしまった。だから色々と忘れてしまったであろう感覚を子どもたちに教えてもらわなくちゃと日々思っている。 さて、この映画はなかなかえげつない。一言で表すならば『露骨』なのだ。 一つの家族において共に小説家という両親の離婚という大きな出来事をどう体験していくか、という物語を淡々と、時にシニカルなほどに描いている。 一目瞭然なのは、父親の驚くほどのオッサン体質である。いや、まさにオッサンが服を着てしゃべっているようなものである。笑えるレベルを超越したオッサン。あらゆる周囲をこき下ろすのみに情熱的なオッサン。そして一つだけネタバレが許されるなら、父親は最後まで何にも変わらない。これほどしっかりとしたオッサンというキャラクターが、よりによって家族というところでどう発揮されるのか。想像するだけでゾッとする。 ただ、観ている者を悩ませるのは、その父を完璧なのだと信じ込み、なんなら助長させているかのような役割を担うお兄ちゃんの存在である。父親の口調を身につけ横柄に喋り、常に父親が彼のヒーローなのだとわかりやすい。思春期バリバリの年頃の敏感な男の子に、中身はともあれアイドル(偶像)であった父が、ただのエロいオッサンだよとは誰も言えないし言わない。憧れの父親だって少なくとも失敗だらけの人間である、それすら誰も彼に言い聞かせる人はいなかったようである。 そしてだんだん現実に気づいていく過程は観ていてとても胸が痛い。そこに至るまでのところでわたしは、あまりにもこの父親が不愉快だったから観るのをやめようかとすら思ったけれど、今度はお兄ちゃんのショックを思うとこれまたいたたまれなくなり気になりすぎて観るのを止めるのをやめたのだった。 この兄はこの映画が終わる頃、きっと父親のようなオッサンにはなりたくないと強く思っているだろうけれ...

わたしはダニエル・ブレイク(ケン・ローチ監督) 小さな怠慢が招くもの

一作目のレビューである。 この作品は尊敬すべきおじさんとオッサンの話とも言えるかもしれない。 言わずもがなのカンヌ国際映画祭でパルム・ドールをゲットした作品である。 しかし、地味な地味な映画でもある。 以下に鑑賞後すぐわたしが書いたレビューを転載する。 満点にする勇気がなかった。 褒めるわけにはいかない事情がある。 わたしはひとりの障害者であり、生活保護受給者である。 わたしの今が描かれているかのように身につまされた。 根本的に、もともと日本とイギリスの国民性は似ている。 個人的にそれは島国ゆえのことだと思うのだけれど、この映画で四角四面に役所の職員が、ダニエルに話すことのいちいちは、しばしば日本でも「真面目な公務員」二ありがちな、そんなことを話していて人として恥ずかしくないのか的な台詞である。 自ら、人間であることに目を瞑り、機械的な言葉を発する。 相手が人間であるかどうかなど考えたこともないのだろうと思えてくる。 そんな彼らは、この映画を見てなんと思うのだろうか。 あの日、区役所で意味もなく怒鳴ったあの職員の感想を知りたくなった。 さて、日本の公的扶助は大方において申告制であり、困っている側が自ら自分が何を受けられるのか、どんな制度があるのかを調べなくてはならない。 その上で役所に問い合わせたところで、職員をもってしても知らないことすら多々ある。 そしてさらにあまり仕事したがらない体質までついてくる。 ではそんな制度は、一体誰のためにあるのか。 形だけ用意しておけば良いと言うものではない。 日本の行政のIT化の異様な遅れは、わざわざ人手を要することで過剰な公務員を雇っていくためなのだと悟った。 そう、もうイギリスも日本もほんとに似ている。 政治や国を、彼らのためだけに使わず、市民が取り戻さないとならないのかもしれない。 そうしないとこの時代から先は真っ暗どころかもう崖っぷちにいるのだ。 こんな風に誰ひとり、無責任な連中に殺されてはならないと強く思った。     わたしは彼らの今後においてもし困ることになれば手助けもするかもしれない。    だが、いま、彼らにその職務において殺されるわけにはいかないのだ。   ここに述べたように、役所の職員にまずおっさん体質が蔓延している。 パワハラ、モラハラも場合によっては伴いながらそれを『正義』としてしまうこ...

はじめに

生きてるだけで理不尽なことには山ほど出くわすのがこの世の中らしい。 それがストレスの大きな割合を占めることにみんな薄々気付いている。 『何ですと?』と聞き直すのも馬鹿らしいような幼稚で陳腐な台詞をいい大人が堂々と口にしているのを見るにつけ、この人には中身の伴わないプライドがあるのだろうと察すると同時に、どうして同等の羞恥心をゲットしてこなかったのかと同じ人類として非常に恥ずかしい思いになる。 まるで丸裸のおっさんと話しているような気分でとにかく不愉快なのだ。 そんなおっさんはなぜかまた別のおっさんに庇われることで生き延びる。 つまりおっさんは一人や二人ではない。今いるおっさんだけでなく、なぜかどんどん再生産されている。 ゾッとするがどうやらそれが現実のようだ。 オッサンよさようなら あるひとは 『それが社会なんです』と言った。 ちゃんちゃら馬鹿馬鹿しい。せめてそのくだらない継承をなんとかしないことには内部崩壊しかないではないか。 今後若いみんなが社会を放棄したらどうする?おっさんだけで何ができる? その先に新しい社会があるとしてそこにおっさん病は起こり得ないのか? おっさんパンデミックに疲れたわたしの発露の場はここにした。 そんなこんなでもうすでに人類規模のトラウマになってしまっているおっさん病とも言えるようなものをさまざまなコンテンツからレビューにすることにする。 そしてこれはわたし自身にもそうだけれど、振り返って自省し自制する機会にもしたいと思うのだ。 おっさんという逃げ場を無くし、それを悪しき伝統としないための検証をしていく場なのだ。