敷物の下に入るのが今の流行 相変わらず、本来わたしが使うことのできるヘルパーさんの時間の半分が欠落したままの毎日を過ごしている。 その使うことができる時間というのは、役所が算定して「生活に必要だから」という理由で確保しているものである。それが半減するということは、生活できなくなっていくことなのだが、なかなかそれが改善しない。 結局、このような身勝手なことは一事業所としていくらでも物理的にできてしまうのである。 こう言ったことは本来あり得ないことなのだけれど、ここ京都市右京区にてわたしが体験するのは2回目である。区役所も学ばないので対策も何もない。 だから、わたしは生きていくことを選ぶなら、ここにいてはいけないのだろうという疑念が今回確信に変わったのだった。 それよりも何よりも体調が猛烈に悪化しており、だんだんと膨らむ猜疑心は、他事業所の方々にまで「この辛さをわかってくれたらいいのに」という気持ちとなってしまい、勝手にとても辛い思いをする。 一方的に辞めた事業所が一番悪いのだけれど、その結果わたしが困っていること、今それをどうにもできなくている事実に対応できないでいるのなら、結局わたしは毎日の時間を切り売りしているに過ぎないのかもしれない。その結果がどうなのか、毎日の生活全てを見ているわけじゃないからか、いじめっ子の周囲で見ているだけの子どもたちみたいなスタンスなのか、と悩ましい。何より、辞めた事業所の「尻拭い」のようなニュアンスでこの問題を取られるのもとても辛い。いやいやながら普段やってるのかなあと思うような卑屈な気分がわたしの中で増幅する。これではポジティヴな連携というより自分たちが無責任ですますためのネガティヴな話し合いでしかない。 嫌なものを押し付け合うかのような虚しい瞬間瞬間がこういう時にはすごく多くて、それが毎回心の痛手となって、一体わたしは何をしているのか、何を罰せられているのか等々悩みは尽きない。 結局自分が一番大事なんだとはよくいう言葉だけど、時にはその困っている具合に応じてほんの少しでも心細さをサポートすることは本当にできないことなんだろうか。そんなことは加害者以外の人たちには関係ないのだろうか。 今、支援を受ける時間が減っていることで、いつもの何倍も心細い毎日を送っているけれど、そんなわたしの気持ちを「知っている」人は多い。でも「知っ...
バイバイ、いやなオッサン、バイバイおっさんみたいな文化 そんな決別宣言