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6月, 2023の投稿を表示しています

日々の考察vol.8 優しい人であることはそんなにいけないことか

  敷物の下に入るのが今の流行 相変わらず、本来わたしが使うことのできるヘルパーさんの時間の半分が欠落したままの毎日を過ごしている。 その使うことができる時間というのは、役所が算定して「生活に必要だから」という理由で確保しているものである。それが半減するということは、生活できなくなっていくことなのだが、なかなかそれが改善しない。 結局、このような身勝手なことは一事業所としていくらでも物理的にできてしまうのである。 こう言ったことは本来あり得ないことなのだけれど、ここ京都市右京区にてわたしが体験するのは2回目である。区役所も学ばないので対策も何もない。 だから、わたしは生きていくことを選ぶなら、ここにいてはいけないのだろうという疑念が今回確信に変わったのだった。 それよりも何よりも体調が猛烈に悪化しており、だんだんと膨らむ猜疑心は、他事業所の方々にまで「この辛さをわかってくれたらいいのに」という気持ちとなってしまい、勝手にとても辛い思いをする。 一方的に辞めた事業所が一番悪いのだけれど、その結果わたしが困っていること、今それをどうにもできなくている事実に対応できないでいるのなら、結局わたしは毎日の時間を切り売りしているに過ぎないのかもしれない。その結果がどうなのか、毎日の生活全てを見ているわけじゃないからか、いじめっ子の周囲で見ているだけの子どもたちみたいなスタンスなのか、と悩ましい。何より、辞めた事業所の「尻拭い」のようなニュアンスでこの問題を取られるのもとても辛い。いやいやながら普段やってるのかなあと思うような卑屈な気分がわたしの中で増幅する。これではポジティヴな連携というより自分たちが無責任ですますためのネガティヴな話し合いでしかない。 嫌なものを押し付け合うかのような虚しい瞬間瞬間がこういう時にはすごく多くて、それが毎回心の痛手となって、一体わたしは何をしているのか、何を罰せられているのか等々悩みは尽きない。 結局自分が一番大事なんだとはよくいう言葉だけど、時にはその困っている具合に応じてほんの少しでも心細さをサポートすることは本当にできないことなんだろうか。そんなことは加害者以外の人たちには関係ないのだろうか。 今、支援を受ける時間が減っていることで、いつもの何倍も心細い毎日を送っているけれど、そんなわたしの気持ちを「知っている」人は多い。でも「知っ...

日々の考察vol.7  自由と平等 専門家って

今日の文章は以前わたしが他のところに書いていたものである。 改めてここに載せることにする。 この社会において、個人はほんとに平等となるべく一応育てられるが、その属性においては堂々と差別される。 その結果、多くの人たちは様々な役割にハクをつけるべく資格を取り、時に学習、研究を重ねて専門家となっていく。 発言力の大小にかかわらず、誰もが何かしらの専門性を主張しないと生き残れないようになってきている。 そのことで、生活や暮らしは大体の場面によって切り取られ、平均的に慣らされてしまっていく。 お互いがお互いの事情ばかりをおもんばかり、配慮を半ば強要するのだ。 「お互い様」の意味ですら、こうなると負の連鎖にしか役立たない。 何のためにその専門性を選んだのだったか、 多くの人たちが見失い、気づけばわがままの主張のためにすら、悪用してしまうのだ。 不正はいけません、というけれど、これほどまで社会が不正できるように成り立ってしまうと今更感まで漂う始末である。 あくまでも平等なんですよ、みたいなことが高い「専門性」と同時に存在するのはなかなか難しい。 他人の評価ありきなものだからだ。 あまりにもこのことが好きなんだなあと思わせる人ほどメディアによって、より奇人変人扱いされていくだけだから、「需要にあったことを言える程度の専門家」ぐらいで落ち着いていく。 奇人変人でよいではないか。 実にめんどくさい。 メディアなんて所詮素人なんだから分かろうものではないが、「専門家の自分が思うにはこんなことだ」と言い切るほどの誇り高い専門家はどんどん組織の外へと追いやられてしまうのだ。 だから、あっちこっちで自称専門家ばかりが、権威的なところの意見を引き合いに出しては情報を翻弄する。 それだけ、本当を知りたいのに色々な意見があるということは「正解がまだ出せないのだ」としてしまえばいいのだろうけれど。 日本の社会では、あらゆる契約も何もかもの論理的思考は嫌われる。 むしろ失った方が生きやすい。 わたしもそのことは一生のあいだいつも感じてきた。 なぜこうなるのだろうかと思うことについて、良きにつけ悪しきにつけ、まともな返事の返ってくることがほとんどなかったからである。 年を重ねるごとに周囲は業務的な関わりの人たちばかりになり、どんどんなし崩しが多くなってきた。 わたしの人生の中で起こる大きな出来事にしばし...

日々の考察vol.7  怠惰と無気力・無関心=区役所の「お仕事」とはなんだ

右京区役所 今わたしは京都市右京区に住んでいる。 一人暮らしで引っ越しを何度かやったので、その間に出会った役所もこれで3つ目である。 右京区は引っ越した日から異常だった。 手続きに役所に行ったらいきなり窓口の男性職員が怒鳴った。 意味がわからないが、そんな人とは話せないので帰った。そんな態度の職員はこちらが相手にするべき人だとは思わなかった。 それ以降も、意欲的だった最初のケースワーカーは心を病んでケースワーカーになりたかった自分ということすらを諦めてしまった。漏れきく「上司」の異様な振る舞いは、こちらまで伝わるほどだったし、当時の係長はそれに準じてか知らないが、かなり高圧的、感情的にちょくちょく電話などに登場した。その異常性を隠すことなくカンファレンスでも披露して、今年度「移動」して行ったそうだ。 発言のいちいちが変な人だった。完璧な「さよならオッサン」案件だった。 で、その後改善されたかというと、そうでもない。障害保険福祉課の方も一貫してるのが、あまりに杜撰であるということに尽きる。極端なずさんをするために仕事をするかのような毎日を繰り返したせいか、責任感もないし、どんどん自己満足という目的のための勝手な理屈は膨張していく。そしてそれをこちらに強要する。その度に、「そもそもそれは法律違反であるから簡単にOKしてはならない」などとこちらから指摘しないと動かない。なぜ行政がこれほどに条例や法律を知らなくて間違うのか。 こんなに伝統的に怠慢とただの自己満足が蔓延している区役所をわたしは他に知らなかった。 これで仕事ができていると思っているのか、と呆れてしまう。 例えばどこかの福祉サービスが区役所に電話して「こんなことをしたくない」と『やってはならないこと』を主張する。 それを役所がテキトーにハイハイということで、後々大きなトラブルになり、役所じたいも仕事が増える。 それをいちいちこちらが伝えきいて、区役所にまた電話して「簡単にOKするな」と叱り、後始末を役所がすることになる。 こういうことをしておいて「私たちは忙しくて」という。 こんな凡庸なプレイに付き合わされる方はたまったものではない。こっちこそ暇ではないのだ。そして京都市の財政が危ないのかそうでないのかすらいまいちわからないのも、こんな仕事ぶりでは当然だし、このままではもれなく破綻するだろうと思う。 こういう「仕...

「ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~」 私たちは誰かを守るために何ができるのか、支援の可能性を戦争から考える

ETV特集 市民と核兵器~ウクライナ 危機の中の対話~ このところ、悪といえばプーチンという形容詞のようになっている、対ロシア問題である。 たくさんのドキュメンタリーが作られてきており、プーチンの何がいけないのか、ウクライナはどう戦うべきか、諸外国はそこにどう関わり、解決に貢献できるかなどを語られてきている中で、やっぱり根本的にプーチンという人の言うことに対して理解不能で思考停止している状態が続いてしまっているのだなあとも思っている。 わたしの考察というのは一貫していて、彼の思考回路は、家族的な価値観で言えばただのDVなおっさんだということではないかということである。 圧倒的なコミュニケーション能力の欠如があるのだが、それを暴力で全てリカバリーしてきた経験が、たまたまロシアでは成功した人。 だから本当は国際社会ではなかなか本人が望むような評価を得られないできたことへの鬱憤もこの逆ギレ戦争には込められているのだと思う。 今まで彼の暴力的な傾向にいち早く気づき、先手先手をうちながら「私たちうまくやってるでしょ?仲良くやってますよね??」と寄り添いながらうまく協調できてきたのは、ドイツのメルケルのみだった。 悪いけど、ああいったやり方をできる男性はまずいないのではないか。G7から外すのではなく、その輪に歓迎することで暴走できないようにする。プーチンだけではなく、世界のための協議なのだからという民主主義の根本が彼女にはわかっていたのだと思う。 プーチンの持つ、過剰な支配欲にメルケルが気づいていたかどうかなんて愚問である。プーチンが元々そうなのかというより、国家元首という莫大な権力を持ち続ければが男性というのは支配欲に拍車がかかるものだからだ。そして彼のストッパーとなってきた側近はこれ見よがしに殺されてきたではないか。もうそのあたりで十分彼は病んでいた。 さて、話は戻るがとにかくいちいち鬱陶しくも優しかった母親役のメルケルもいなくなったことだし、プーチンは暴れ出した。久々に暴れているのだが、もう止まらなくなってしまったのだ。 ウクライナはえらく怒ってやり返すし、正直メルケルがいたら・・・と今彼が一番思っているのかもしれない。アホみたいな話だけれどオッサンというのは案外そのようなものである。インタビューで調子に乗って脅すようなことを言いすぎても、あんなん大丈夫ですよ、わたしがち...

日々の考察vol.6 「善人であれ」という呪縛は善人によるとは限らない

レトロすぎるわたしなのだ   環境ってなんなんだろう。 当たり前が当たり前じゃなかった、ということの衝撃。 よくそんなディストピア映画がある。 その時代には今ある「自由」が制限されていたり、そもそもそこの誰かに管理されていたりする。そういった作品を見て「ああいう世の中にしてはなりませんな」と思う人が多いのかもしれないが、わたしはいつもフラッシュバックを起こしてしまうのだ。既視感、それは「確実にわたしにはそこにいた経験がある」ということの恐怖を呼び戻すのだ。 そんな時期がわたしはとても長かったと思う。正直言って「バカみたいに」長い間そんな環境にいた。 逃げればいいのにといつもわたしは知っていたのに長く耐えることを選んだ。 「バカみたいに」耐えていた。 そんな時わたしにはいつも呪文のように自分に言い聞かせていた言葉があった。 ローマ人への手紙 5:3-5 JA1955 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 つくづくよくできていると感心する。なぜならわたしは、決して「このように考えて耐えろ」と言われたわけじゃなく、自らこの箇所を気に入って信じていたからだ。  そう考えることがこの言葉どおりに「希望」だったからだけじゃなく、何よりクリスチャンの親にはウケが良かった。うまくそれなりに誤魔化せたのだ。わたしが本当はどう思っているかというわたしの気持ちを。わたしはずるく育ってしまった。 人から見ると本当に奇妙で情けないのかもしれないけど、親の感覚と子の感覚は全く別物で、これはきっと動物的本能として子は親を絶対視する。特に幼い時にはそれが全てだ。どんな親も変じゃないものなのだ。だから成長していく時に、親に対する批判的な心情が生まれると、罪悪感も抱く。特にわたしの育った家のような支配的な親子の間では、そういう親と違う意見を持つことそのものは、同時に死に値するほどの恐怖を伴うことだった。 非常な表裏のある親を見て知っていたし、正直に言えば自分がそうなりたいとは全く思わなかったが、段々と自らの本当の気持ちを隠すうちに、「取...

日々の考察vol.5 無知もしくは鈍感であるという暴力

  前項からの続きである。 一般的に著しく鈍感な人というのがいる。 あれはどういう感情なのだろうか。そもそもそのような人の場合、他者はなんのためにいるのであろうか。どういうふうに見えているのだろうか。 そもそも、鈍感な人にとってコミュニケーションとは必要なのだろうか。 そして支援とは… 活動を容易にするために支え助けることである。 どうにもこの言葉がなぜかごっつい独り歩きしてしまっているのだなあという出来事があった。言っておくがそういう独り歩きというのが当事者にとってはこれほど残酷なことはないのだ。 ぐっさんもじぶんで考えますけど 1.ある事業所との会話 反知性主義とはこれなのか 最近、というより2年ほどうちの支援に来ていた事業所との「意見の相違」があった。 週に6日、夕食を入浴などをお願いしているところであるが、来ていたヘルパーさんが軒並み止めることになったことから事業所が支援に入れないと言い出した。 ま、色々あるけれどここまではいいとして、そう言った場合次の事業所をそこが探して支援に滞りがないようにするものである。 それを踏まえて事業所の人に一度来てくれと言ったら「嫌だ」と言い出した。「電話で済む話だから」を繰り返す。しかしわたしはそれでは困るので来てくれと言った。ちなみにわたしは数字というものに学習障害があり、6日分の日程を電話で話すのは無理なのだった。でもその事業所は譲らなかった。しかもその理由を一度も話さなかった。全て「電話で済むのに」としか言わなかったのである。 所長である彼女は準備できたであろう1ヶ月という期間中、誰に言われてもそれを貫いていたが、突然、月末日に突然社長と二人でくると言ってきた。 月末になって何ができるというのかと思ったが、まあいいかときてもらった。 しかし、そこで展開された話はとても奇想天外な話だった。 社長「まず、明日から◉◉(事業所名)は毎日スケジュールに穴を開けますが理由があります。ですから了承いただけないかと思ったのですが」 わたし「スケジュールに穴を開けますとは普通あまり宣言しませんし、それを了解することはだれに聞いてもない話だと思う。意味がわからない」 社長「あなた(わたしのこと)はこの〇〇(社長)の気持ちをいつも考えなかっただろう」 わたし「それなりには考えるけど、この方があまりにも身勝手だからそれをやめてくれと...

映画『パーフェクト・ケア』 古今東西、後見人とは公的に「認められた」搾取・詐欺ビジネスなのだった

“完璧なケア”で裁判所からの信頼も厚い法定後見人のマーラ・グレイソン。だが、その正体は合法的に高齢者の資産を搾り取る悪徳後見人だった。そんなマーラが次の獲物に定めた資産家の老女ジェニファー。身寄りがなく格好の餌食となるはずが、なぜか彼女の背後からロシアン・マフィアが現れて――。 以上は公式HPからの引用。なかなかなブラックコメディである。 この映画を、実際に後見人ビジネスに搾取されながら見るというシュールすぎる体験をした。 こうなるととても笑ってはいられない。 わたしの場合はロザムンド・パイクではなく「福祉のよしみ」という一人のおっさんではあるのだけれど、そして彼はもっとコミュニケーションも取れないのだけれど、 そして何よりわたしにはロシアンマフィアという強い味方がいるわけでもないのだけれど、今まだ続いているからこそここにそのことを書いておきたかった。 パイク演じるマーラは後見人という仕事をビジネスとして大成させてこの分野において第一人者となっていく。 そもそも「後見人ビジネスとしての第一人者」とはなんだ?かなりイカれた匂いがぷんぷんするのだが。 それでも資本主義国家としてイチバーンなアメリカは、経済的な成功が社会的成功のバロメーターであるから、彼女のビジネスモデルを尊重してしまうのだろう。 ま、大体そういう利益を求める考え方と福祉という公助の概念とは非常に折り合いの悪いものである。だからこそ後見人ビジネスというハイエナのような職業にわたしは嫌悪感を覚えるものである。 正直にいうと、そんなことを本気でやる人が近くに現れるとは思っていなかった。 でも現れたのだ。それがわたしの前補助人自称「福祉のよしみ」である。マジでそれを職業とする人がいたのだ。最初に名刺をもらった時から「大きく出たな」というのがわたしの第一印象であった。あまり福祉関係の仕事をしていて自らを福祉といえば自分だというような人に会ったことがない。それほど福祉というのは奥深く重い言葉であるからだ。 ろくに考えてないか、無駄に誉められすぎておかしいのか、そんなものだろうと思っていた。そしてきっと彼が求めるのが「有識者」というポジションなのもすぐわかった。こういうわかりやすい名称であればあるほど、行政の目に留まりやすいものだからだ。ま、どっちもどっちであるが、そういう中身のないメンツで物事を決められて困るのが当...