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日々の考察 vol.17 この国のおっさんたちへ

えらいもので今年に入って特にテレビの中のおっさんがめちゃくちゃ怒られている。 そしてそのおっさんたちはすべからく変態なのである。 ジャニーズ問題で亡くなったとはいえ、逆輸入なドキュメンタリーをきっかけに、一つのおっさん帝国が終了した。 次はお笑いおっさんファミリーである。今わたしたちはここにいる。 どちらも性暴力事件であって、そういうことについては法制度に至るまでここ日本では早急にアップデートすべき案件なため、逆説的ではあるけれどこれらの議論の結果、今は 日本社会が進化できるかどうかの大きな転機 になりうる状態ではないかと、わたしは期待を込めて見ている。 変態が先なのかおっさんが先なのかわからないが、とにかくおっさんはそんな変態行為の数々を恥じないことが大きなターニングポイントである。つまり、そういう発言を恥じるべきモラルがないおっさんは、もれなくさらに加速し悪化する。 誰でもが気分を害していても、自慢話にするし、 なんなら「人前でできる自分」という権力が自分にあると思い込んで酔ってしまい、威張ってみたりする。そう、おっさんは自分に一定の権力があることと、社会的なモラルを守らなくていいこととをセットの特典のように考えているみたいだ。馬鹿馬鹿しいのだけれど、実際にはそんな勘違いこそが、おっさん病の症状なのではないか。元々そんな人ではない、などという言い訳は関係ない。そういう勘違いこそが大問題なのだ。 今回の吉本興業の芸人さんを中心とするダウンタウン松本の報道というのは、あまりにもカッコの悪い、悪質極まりない事件の数々にまつわるものである。いろんな意味で男の持つ暴力性の限りを尽くした悪質さに、女性たちは生理的な嫌悪感を覚えるのだ。 相当に具体的な記事の言葉を耳にする女性のほとんどが吐き気を覚えるような時間についての供述が、毎週週刊誌に暴露されている。 一方、この激化する報道に際して「それほどじゃない」というような擁護論も出ているらしいのだが、それは今回おいておく。ちょっとそれとは別に「ほらほらまたまた…」とでもいうような意見も見られるようになった。 それについて書いてみる。 基本的にわたしは芸人に対して批判的なメディアの方を多くみているのだけれど、YouTubeなどでは、自覚なく悪ノリするおっさんが出てきた。 それが非常に不快なのだ。 例えば、そんなおっさんは松本人志を...

日々の考察vol.16 コロナ以前と以後の福祉について

  コロナのパンデミック中から、この現象 はこの国の福祉にとって今後きっと非常なほど悪影響をもたらすものになるだろうとおおかた予測していた。とても嫌な予感がしていた。 元々どういう考え方の事業所だったかを問わず、「支援する側」に「支援するかしないかはこっち次第」という勘違いをさせてしまえるほどには、強烈な社会の変容だったと思っている。 人手不足だとかいう根拠も根強いけれど、実はパンデミック以降の価値観の変化が、とてもわたしたち当事者には辛い。 信頼関係を構築するはずのヘルパーさんにそんな態度を示されることは、実際に病原菌よりメンタルにくる話である。 わたしとしては、そんな感覚の事業所なら、そもそも対人の業務を必須とされるような事業を止めることをお勧めしたいけれど。 日本の福祉の問題を構造的に考えようとするけれど、現場はわたしの家である。異常とも言える言い分を毒のように撒き散らしていく人たちを相手に、わたしはずっと何かに試されている気がしている。 「こんなことを続けていたら理性を失くすのではないか」そういった不安に駆られるからである。 先日、あるヘルパーが、わたしの友人からきたメールに勝手に返事を書いたことがあった。もちろんヘルパーの意見を勝手に返事にしてしまったのだ。 あり得ないことが起こったと思ったので、その場で注意したが、彼は「僕の方が恋愛相談は得意なんで」と言ったまま訂正も謝罪もしなかった。 このような出来事が、異様に非常識で、「大ごと」と知らないみたいだった。簡単にいうと、犯罪なのである。しかし、そのヘルパーがいる事業所は、開き直って「そのヘルパーがストレスで行きたくないと言ってるんですよ」と責め立てた。何がストレスなんだと呆れはするが、逆にそんなこともわからない人をわたしは今まで家に招き入れていたのかと愕然とした。その事業所丸ごと更生が必要な段階でしかない、そんな稚拙さに付き合う理由がどこにあるのかわからない。しかも彼らは、あらかじめこちらの話は聞く必要がないという話の仕方しか知らない高圧的な態度しかとらない。つまり電話で「まともな会話」すらできないのである。だから会う約束すらできずにいる。 その前に来て去っていたところも、またその前に来たところもそれぞれに異常な言動をして去っていった。共通するのは、自分の未熟さを差別を利用することで済まそうとする...

差別はうざい。侮蔑という差別の日本に、マイケルは何をもたらすのか。

サンデル教授に聞く「能力主義」の問題点。自己責任論の国・日本への処方箋は? 【マイケル・サンデル×平野啓一郎特別対談】 なるほど、自己責任。あの頭にくる言い分ね。平野さんはそこから引っ掛かっているのもよくわかる。 確かにその表現には、発言者にとって自覚のない侮蔑の言葉としての匂いがプンプンしている。 差別も腹立たしいが、侮蔑は相手の生きる気力を奪う。話の最中に出てきたら、その腰を折る言葉なのだが、それが相手にとって自ら命をおえる決断へのトリガーになりうるほど強い言葉でもあるとわからず使う人も多い。流行り言葉としては最悪だ。 実際、社会という構造の中で生きていれば、自己責任なんて皆無なことは誰でもわかるはずなのだ。 先にそれを列記とした真実として強く信じていれば済むのだが、「社会的弱者」というのは何が弱いと言って勇気を振り絞る場面や決断することにとても弱い。自信がないのだ。それで恐る恐るコミュニケーションを取った相手に自己責任と言われたら、絶望する。 能力主義とは一体どういったことを指すのか、とわたしは最初に思った。 この場合、 なるほど、人をその実力で評価することそのものね。 そもそも、誰かに何かの肩書きみたいなものがあるということ、誰かが何かを持っているということと、その人の良し悪しは根本的に違う話ではないか?とわたしは思っている。 わかりやすく言えば、金持ちで性格の悪い人というのも山ほどいる。 なんとなく思いつく人はいませんか? 昔話にもよく出てくる例である。 しかし、いつの間にそういう能力主義という価値観が主流になっていたのだ? 日本の会社などでは給料査定などの場面では「理想として」そうなのだろうけどねえ。 もちろん人間性とは別の話である。そう思うけどねえ。 平野さんも言っているが能力主義というほど能力が成熟していない集合体の社会なのだ。つまり、能力主義というほどでもない社会なのです、と平野さんが言っているわけだ。日本と欧米の違いというものでもあると、この辺りはやはりお二人の指摘が入った点ではある。ただ、日本も確実に能力主義にシフトしつつあるのも事実なのだ。 ま、実力という抽象的なことでいうならお金だけではないので、この本のタイトルとして忠実にいうなら、チャンスはお金や学歴のある人の方が多いから、それは威張ることではないという感じではないではないか。 100%...

日々の考察 vol.15 1匹のヒトという生き物として生きること

  このところ、いわゆるフラッシュバックというもののあまりの連続に発狂しそうである。 わたしの部屋で 夜を徹して行われた父と母からの折檻 の光景、その後に必ず迎えた朝の光景、助けに階段を登ろうとしては止められてしまう祖母の存在、そんな毎日をただ耐えている時に感じた無力さと絶望。 繰り返された「お前は必ず他人に迷惑をかけるから何をするにも絶対に他人を巻き込むな」「どうせお前の考えることはろくなことじゃないから、好きに生きていけると思うな。そうしてもそう思うなら出ていけ」「授業料をこっちは払わなくてもいいんやぞ」 今もわたしはきっとあの絶望の空間にいる。あのいちいちの発言でわたしは毎回心を削り落とされたし、きっともう今はわたしの心というものは残っていない。結果的に破壊されても仕方がなかったと改めて思うのだ。そんな言葉を、わたしは本当にしょっちゅう夜から朝まで土下座をしながらきいていた。わたしと父との会話を全部足したところで、わたしが土下座をしないで話した時間の方がきっとすごく短いだろう。それくらいにいつも必ず長時間にわたってであった。 ずっと「じゃあなぜわたしはこうやって存在しているのか」と疑問だったが同時にその「答え」もその時両親は口にしていた。 「神様から預かったと思うから育ててやっているけどこんなんじゃどう顔向けできるのかわからん、こんな子で恥ずかしい」 自分でも不思議なのだが、この発言を当時(中学校から大学に入ってしばらく経つまで)何度も聞いているうちに「親としてなんと無責任な表現なのだろうか」とだけは思うようになってきた。口には出せなかったけれど。あ、一度高校生の時に担任の教師にあまりにも不思議だったので、その疑問をぶつけたことがあった。今思うと、その担任は、前提としての情報がない中で「神様」のくだりだけを突然言われても、きっとわけがわからなかっただろうと思う。でも掴める藁を探していたわたしとしては、また周囲の大人を諦めていくことになっていた。 そんな数えきれない体験を通していく中で、結果的にわたしはひとつの法則のようなものをゲットしてわたしの心の奥底に敷いておいた。 「人間と人間関係は信じるに値しない」「本人の都合でいつでも裏切る」「自分と接しているときに見えている人柄が全てではない」そして人間というのは「所詮その程度の 動物である」 もはやそれは怖...

日々の考察 vol.14  改めて、生きるってなんなのだ、当たり前じゃないんだ

  いくつになっても、自分が振り返った自分の人生への想いがひっくり返るような出来事と言うのは起こる。そしてその度に、これ以上もない虚無感と絶望を味わい尽くすのだ。だからわたしは過去を振り返るのは好きじゃない。 思えば、わたしの親がわたしにしてきた強要的な支配のようなものが、通常の親のものと違うのかもしれないと思い始めた時から全ては始まっていた。 しかし、家族として暮らす以上、そのいちいちの答え合わせのようなものを過去に対してまで行うことはしなかったし、きっとその時の「現状」ですら、その時のわたしが生きていく上で耐えうる程度にしか認識していなかった。きっとそうに違いない。 だからこうやって後からまるでツケを払うように「あの時はそんなものだと思っていたことが根本から違うなんて」という出来事に今更出くわすのだ。 最近ちょっとしたことをきっかけに、わたしの中にある過剰なグロい下ネタへの嫌悪感に対して自分で疑問を持った。なんだか生理的に嫌だわと。しかもそれって異様なほどだわと。 そして、これってもしかしたらあのことが原因なのかなあと思うような過去を2つ思い起こしたのだ。ちなみに、わたしはそれまで、その2つの過去をトラウマになりうるものだと思ったことはなかった。 1つは、わたしは中学校の時から電車に乗って1時間はかかる学校に通っていたのだが、電車の中でも、その待ち時間に利用する本屋でも、とにかく痴漢にあった。 渋滞している空間には必ず痴漢がいる、今ではそんな解釈をしているわたしだけれど、初めて痴漢にあった小学校を卒業してすぐのわたしは、されていることは嫌だったけれどそれが「痴漢」ということだとはわかっていなかった。 そこで、帰宅後、母に聞いてみた。こんな事をするおっさんがいたので嫌だった、と。それを聞いた母は「それは痴漢だ」とものすごく怒った。わたしもその様子を見て、やっぱりあれはやったらいけないことをあのおっさんがしていたのかと少しホッとした。 そしてそのまま学校には通い続けていたが、高校生の頃にほとほと嫌気がしてものすごく早い空いている時間の電車で通うことにした。ちなみに、そんな痴漢は一人ではなく周囲にあまりにもいっぱいいた。 ただ、そのことでわたしはちょっと混乱したことになった。 なぜなら、ここからが2つ目の過去であるが、わたしの家族というのは宗教的に独特な立場(...

ある告発の解剖(Anatomy of a Scandal )考察 その後も色々考えた

前回の記事はこちら ある告発の解剖 「正しいこと」はいつも困難である 鯛は頭から腐る、ということの果てなのか、はたまた元来からの人間の習性なのかこの頃のニュースはとにかく凶暴化が凄まじい。すぐに殺す。人類の滅亡へとまっしぐらな気がしてならない。 人と会話するにしても議論を深めるわけでもなくすぐに論破する。しかも何秒で論破!みたいに速さで勝負している気までする。議論の過程で折り合いをつけることを目的とする時代は終わったのだろうか。論破することに誰がそんな意味を持たせたのだろうか。もしそうならなんと殺伐とした社会だろうか。会話や言葉の必然性がいつの間にか変わっていたのかもしれない。 福祉サービスを受け始めて知ったが、この業界には結構非常識な人が多い。はじめは面食らったけど、腐りかけの鯛のお頭だった方のように、奇妙な「理屈」で解釈した言葉や文章をなすりつける。 ある日ある団体から一方的に「契約終了のお知らせ」というのが送られてきた。しかもその理由がわたしの希望ということになっていて、さらに驚いた。 覚えのなかったわたしはその事業所と改めて話し合いの場を設けてもらうことになった。 わたしは正式な記録である文書が作られていることもあり、円滑に話せるのかなと思っていたが、その団体は結局当人に覚えのない内容にもかかわらず結局謝罪も訂正も撤回もしなかった。 「本人の希望で契約を終えたように書かれていますが、どうしてですか。わたしは希望してないですが」というと、 「それは私たちがあなたがやめたがっていると判断したのでそう書きました。だから撤回しません」 なんだその解釈は、と思ったと同時に、それを言ったオッサンはとりあえず現場のトップで、その人の日本語の理解力がこの程度ってどうしようもないな、とどん詰まった思いがした。何回確認しても彼はそのセリフを取り憑かれたように繰り返した。 このような方と団体相手に今後どのように話したらいいのか、果たしてどのような会話なら成立するのか、全くわからなくなった。言葉が崩壊していると思った。 「これが自分が事務局長だと言って威張り散らしてるおっさんの理屈か」と思うと、この社会に生きる今後の自分の生活への不安でいっぱいになった。 そんなオッサンの事業所は、多分日本一の規模で歴史的に金銭管理事業を独占で行政から請け負ってきたところである。競争相手がいないとこ...

日々の考察 vol.13 障害者の障害とは何か、動物園のフェンスのようではないか

  わたしが人と接するときに守っていることというのが3つある。 先入観をなくすこと。 相手の存在を信じて人生を尊重すること。 そして謙虚に敬意を払いながら接すること。 それを踏まえていればそれほど大ごとは起こらない、そう思っていた。 しかし、なにぶん友人でもない相手とのコミュニケーションになることが多く、なかなかそうもいかないのが今のわたしの毎日の生活である。 だからそう言った問題を起こす人の大方の言動は、一方的なわたしの生活への侵入であり、そう言った侵略的な行為を平気でやるオッサンというのは意外と多い。 わたしはこのような事態に直面するたびに、一体そんな人がなぜこの福祉サービスという業界に存在するのか、と毎回頭を抱えるところから繰り返すのみなのだ。 そして、そんな時にいくら他事業所が入っていても、予防的なこともなければ、臨時の対策も講じられないのもこれまた現実なのだ。必要な積極性が時として失われてしまっているその事態もなかなか表面には出ないが、隠れた大きな問題ではないかとわたしは思っている。つまり、突然の事故などで危篤になったとして、そこにどれほど人道的なモラルが発揮できるかは、あまりにも不確定だ。わたしたち障害者という存在からみて、これほど身近で遠い存在もなかなかないだろう。 これではあまりに脆弱で、とても健康的に大きな問題を抱える人の支援としては危険すぎる現状ではないのかと思いが至ると、一人の当事者としてこの福祉の現状はただ悲しくてならない。 まるで当事者が作り上げた福祉サービスを、無神経な侵略者に乗っ取られたような気持ちである。それほどに支援を受けていることそのものの情けなさを実感させることもないのにと実感するしかできないのだ。現場としてはあまりに残酷な問題である。 こう言った一つ一つは「命に関わる」という意味で限りなく犯罪性の高いものであるが、なぜかこれまたそういう扱いにならない。いちいち当事者が裁判所に訴えないとならないほどに放置されたままなのだ。これが一番わたしが生活していてわからないポイントだ。支援といえば犯罪も許されて捜査もされない。それが日本の福祉の現実である。 そりゃ子どものいじめもなくならないはずだわ。 さらに正直に申し上げるなら、その捜査ができるであろう行政も見逃すし、なんならこれも一つの口減らしではないかと思っている。公に「お金の...