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日々の考察 vol.19 嫌な予感が「正解」となる確率について

 ここ一年というもの、本当になかなか苦心したものだったと言えると我ながら思う。 何のために?というとそれは、ただ生きていくために、ということに過ぎない。 たくさんの一方的な、つまり暴力的な出来事をわたしの家で繰り広げて去っていった事業所と区役所の人たちの『仕業』についての事後処理に、まだまだとても新たな支援が追いつかないのである。 最終的に、右京区役所については京都市役所がやっと動いてくれるとい一報が入り、自分でも驚くほどの安堵をしていたのだった。 その安堵というものの実体として、その連絡をもらったのはお昼頃だったのだけど、夕方入浴した際にわたしの両腕のみに覚えのない湿疹がびっしり出ていたのだった。 痛くも痒くもない湿疹はストレスだった。自覚のない部分のストレスがやっと解放されて顕在化したもの。 今までいろんな症状を体験してきたのだけど、この体験は初めてだった。 ああ、わたしは思っていたより大変だったんだなあとわたしは初めてそのときに自分を褒めたくなったのだった。 何もまだ解決したというものでもないのに、それが形となったものではないのに、勝手に市役所の方の姿勢が変わったことで、安堵していた。それくらいわたしは嬉しかった。 支援にまつわるトラブルを経験していて、あるフェミニストの方が言った「それは性暴力の案件の取り扱いに似ている」という指摘の重さを毎回感じていた。 つまりこれは「支援という暴力」とも言える。 性暴力の問題の取り扱いにおいて、そもそも性行為というものの捉え方が違う際に、同意のあるなしが現実的な確認事項となりうるのだけれど、支援という言葉というものの受ける側とする側の捉え方が違うときに同意を得ずに一方的な支援を貫くことが、全く構図として同じなのではないか、また事後にこんなことをされたと言っても、やってくれたことについてそういうふうに取らなくてもいいのではないか、という言い聞かせのような弁解も聞くことになる。 本来、支援の時間というものは両者にとって有意義であることでもあり、決して我慢の時間ではないはずなのだ。だからその一方的になりやすいことの問題性について、もっと重要視すべきなのだ。そもそも、物理的に「力」のあるのは支援する側の方なのだ。その点について支援の場はそれほどイーブンな場ではない。そもそも支援者は、圧倒的に「力」がある存在でなければならな...

科学はおっさんのものなのか 『キング・オブ・クローン』netfrix

https://www.netflix.com/jp/title/81516199 学者バカという言葉がある。 決して褒め言葉でもない、結局のところ、極めて既存の男性的な狭い了見で好きな分野だけしかものを知らない人のこととなるのだろう。研究対象のことしか知らないような人。 まあ、おっさんに多い。学者でもないのにそもそも狭い世界観でしかものを見れなくなるようなこと自体がおっさんの感覚でしかないから困ったものだ。しかもその狭い自分の世界に対して無駄に高すぎるプライドもあったりするから非常に迷惑なのだ。 このドキュメンタリーのおっさんもただの学者バカである。「科学者として当然のことです」と何度も彼は言うが、その前にあなたは人間でしょうが、と見ていて思った。勝手に「科学者」と言う言葉をカテゴライズして、印籠のように使う時点で彼は本来の意味での「科学者」としてダメなやつなのだ。だと言うのに、なんという傲慢さだろうか。 つくづくおっさんという人たちは折に触れて自分の言動の正体について考えてみるべきなのだ。日本は「専門家」ばかりで細分化した縦割り文化であるとわたしは思うのだけど、そうやってお互いの分野にあまりにも関与しないことばかりをやってきたから、他のおっさんの不正に甘い。「よそはよそ、うちはうち」とも言わんばかりに。社会的構造がそうなったまま結構長くなってきたことで、おっさんは連携することが非常に下手である。変にプライドばかりを刺激しあったりしてしまい喧嘩になるか、それが嫌すぎて関与しないという力が働いてしまうのだ。結局自分を守るために他者に関わらない、そういう内向きで狭いところで生きるしかないことを自ら強いるのがこの国でもいろんな団体のやり方になっている。 小さな組織になればなるほど、小さな権威しかないから無駄に大きく見られるためか、暴力的なおっさんがいたりする。 わたしが若い頃までは、当たり前に男性だけがリーダー役を買って出るものだった。優秀なのはいつも男性だと言う幻の歴史的な刷り込みによるものである。 そんな男性の生き方を見てみると、たいてい異常なほど生活にまつわる部分の能力が欠落していることが多いと思う。幼少の頃は母親が、大人になれば妻が、など過程の時点で既に主に女性の誰かがいないと生きることができない。「妻の支え」というが、それはつまりれっきとした支援とも言えるだろ...

日々の考察 vol.18 違和感の正体

  違和感について じぶんと他者との間に起こることが、うまくいっていると思えるかどうか、人はそれのみに心を翻弄され続ける生き物なのかもしれない。 結局人という生き物の持つ「群れで生きていく」という特性と、「それぞれが考える」という場合の過程をどう折り合えるかを持て余すものなのだ。 そもそも個体が違えば価値観が違う。瞬間的に生じるその違和感の正体に混乱したままでいることを、人は「生きていくのが苦しい」というふうに感じるのではないかと思うのだ。 動物たちの中にも同じように群れで生きていく種は存在するけれど、基本的に弱肉強食で生きることを是としている以上、生きにくいと思う個体については検討の余地がないのが当然なのだ。 だから、ヒトも同じなのかという大きな宿命のような問いを抱えながら、いやそうではないはずでしょう?と長い間生きてきた中でヒトは社会的責任とか福祉とか、また教育とかいう文化を作り出してきたことの証でもあると言えるのではないだろうか。まあ、一つの悪あがきなのだろう。ヒトという種のプライドというものがあるとするなら、そういった「生きにくさを考える力」にかかっているのではないのかとわたしは思うのである。 さて、そんな考えることを誇るヒトという種はいまだに「正解」に辿り着いていないし、その悪あがきの先にはもしかしたら「正解」がないこともあるのだと薄々わかっているのではないか、そんな共通の認識がぼんやりと生まれてきているのではないかなあと、最近特に思う場面がある。 人と人、人と団体などの関係性に変化が生じる大きなうねりを感じるのだ。もっというなら毎日のニュースを見て、あらゆる暴力的な出来事をまるで膿を出すかのように溢れていることを見ていても思う。 特に日本という国においてのそういった関係性は割と特殊で、わたしはその根底に島国であるという事情による鎖国文化のようなものが、やたら肯定的に捉えられている事情があるのだろうと思っているのだけれど、それはつまり異常なほどの個々の人権意識の欠落を家族や地域というコミュニティが代わりとなって補完する制度で賄ってきたことにある。 この国のガラパゴス化した進化の先にある昨今、急に行政的な破綻やカルトの台頭、癒着が登場してきて、じわじわと、「うまくやってると言っていたくせに実はできてなかったんじゃないのか?わたしたちは騙されてきたのか...

日々の考察 vol.17 この国のおっさんたちへ

えらいもので今年に入って特にテレビの中のおっさんがめちゃくちゃ怒られている。 そしてそのおっさんたちはすべからく変態なのである。 ジャニーズ問題で亡くなったとはいえ、逆輸入なドキュメンタリーをきっかけに、一つのおっさん帝国が終了した。 次はお笑いおっさんファミリーである。今わたしたちはここにいる。 どちらも性暴力事件であって、そういうことについては法制度に至るまでここ日本では早急にアップデートすべき案件なため、逆説的ではあるけれどこれらの議論の結果、今は 日本社会が進化できるかどうかの大きな転機 になりうる状態ではないかと、わたしは期待を込めて見ている。 変態が先なのかおっさんが先なのかわからないが、とにかくおっさんはそんな変態行為の数々を恥じないことが大きなターニングポイントである。つまり、そういう発言を恥じるべきモラルがないおっさんは、もれなくさらに加速し悪化する。 誰でもが気分を害していても、自慢話にするし、 なんなら「人前でできる自分」という権力が自分にあると思い込んで酔ってしまい、威張ってみたりする。そう、おっさんは自分に一定の権力があることと、社会的なモラルを守らなくていいこととをセットの特典のように考えているみたいだ。馬鹿馬鹿しいのだけれど、実際にはそんな勘違いこそが、おっさん病の症状なのではないか。元々そんな人ではない、などという言い訳は関係ない。そういう勘違いこそが大問題なのだ。 今回の吉本興業の芸人さんを中心とするダウンタウン松本の報道というのは、あまりにもカッコの悪い、悪質極まりない事件の数々にまつわるものである。いろんな意味で男の持つ暴力性の限りを尽くした悪質さに、女性たちは生理的な嫌悪感を覚えるのだ。 相当に具体的な記事の言葉を耳にする女性のほとんどが吐き気を覚えるような時間についての供述が、毎週週刊誌に暴露されている。 一方、この激化する報道に際して「それほどじゃない」というような擁護論も出ているらしいのだが、それは今回おいておく。ちょっとそれとは別に「ほらほらまたまた…」とでもいうような意見も見られるようになった。 それについて書いてみる。 基本的にわたしは芸人に対して批判的なメディアの方を多くみているのだけれど、YouTubeなどでは、自覚なく悪ノリするおっさんが出てきた。 それが非常に不快なのだ。 例えば、そんなおっさんは松本人志を...

日々の考察vol.16 コロナ以前と以後の福祉について

  コロナのパンデミック中から、この現象 はこの国の福祉にとって今後きっと非常なほど悪影響をもたらすものになるだろうとおおかた予測していた。とても嫌な予感がしていた。 元々どういう考え方の事業所だったかを問わず、「支援する側」に「支援するかしないかはこっち次第」という勘違いをさせてしまえるほどには、強烈な社会の変容だったと思っている。 人手不足だとかいう根拠も根強いけれど、実はパンデミック以降の価値観の変化が、とてもわたしたち当事者には辛い。 信頼関係を構築するはずのヘルパーさんにそんな態度を示されることは、実際に病原菌よりメンタルにくる話である。 わたしとしては、そんな感覚の事業所なら、そもそも対人の業務を必須とされるような事業を止めることをお勧めしたいけれど。 日本の福祉の問題を構造的に考えようとするけれど、現場はわたしの家である。異常とも言える言い分を毒のように撒き散らしていく人たちを相手に、わたしはずっと何かに試されている気がしている。 「こんなことを続けていたら理性を失くすのではないか」そういった不安に駆られるからである。 先日、あるヘルパーが、わたしの友人からきたメールに勝手に返事を書いたことがあった。もちろんヘルパーの意見を勝手に返事にしてしまったのだ。 あり得ないことが起こったと思ったので、その場で注意したが、彼は「僕の方が恋愛相談は得意なんで」と言ったまま訂正も謝罪もしなかった。 このような出来事が、異様に非常識で、「大ごと」と知らないみたいだった。簡単にいうと、犯罪なのである。しかし、そのヘルパーがいる事業所は、開き直って「そのヘルパーがストレスで行きたくないと言ってるんですよ」と責め立てた。何がストレスなんだと呆れはするが、逆にそんなこともわからない人をわたしは今まで家に招き入れていたのかと愕然とした。その事業所丸ごと更生が必要な段階でしかない、そんな稚拙さに付き合う理由がどこにあるのかわからない。しかも彼らは、あらかじめこちらの話は聞く必要がないという話の仕方しか知らない高圧的な態度しかとらない。つまり電話で「まともな会話」すらできないのである。だから会う約束すらできずにいる。 その前に来て去っていたところも、またその前に来たところもそれぞれに異常な言動をして去っていった。共通するのは、自分の未熟さを差別を利用することで済まそうとする...

差別はうざい。侮蔑という差別の日本に、マイケルは何をもたらすのか。

サンデル教授に聞く「能力主義」の問題点。自己責任論の国・日本への処方箋は? 【マイケル・サンデル×平野啓一郎特別対談】 なるほど、自己責任。あの頭にくる言い分ね。平野さんはそこから引っ掛かっているのもよくわかる。 確かにその表現には、発言者にとって自覚のない侮蔑の言葉としての匂いがプンプンしている。 差別も腹立たしいが、侮蔑は相手の生きる気力を奪う。話の最中に出てきたら、その腰を折る言葉なのだが、それが相手にとって自ら命をおえる決断へのトリガーになりうるほど強い言葉でもあるとわからず使う人も多い。流行り言葉としては最悪だ。 実際、社会という構造の中で生きていれば、自己責任なんて皆無なことは誰でもわかるはずなのだ。 先にそれを列記とした真実として強く信じていれば済むのだが、「社会的弱者」というのは何が弱いと言って勇気を振り絞る場面や決断することにとても弱い。自信がないのだ。それで恐る恐るコミュニケーションを取った相手に自己責任と言われたら、絶望する。 能力主義とは一体どういったことを指すのか、とわたしは最初に思った。 この場合、 なるほど、人をその実力で評価することそのものね。 そもそも、誰かに何かの肩書きみたいなものがあるということ、誰かが何かを持っているということと、その人の良し悪しは根本的に違う話ではないか?とわたしは思っている。 わかりやすく言えば、金持ちで性格の悪い人というのも山ほどいる。 なんとなく思いつく人はいませんか? 昔話にもよく出てくる例である。 しかし、いつの間にそういう能力主義という価値観が主流になっていたのだ? 日本の会社などでは給料査定などの場面では「理想として」そうなのだろうけどねえ。 もちろん人間性とは別の話である。そう思うけどねえ。 平野さんも言っているが能力主義というほど能力が成熟していない集合体の社会なのだ。つまり、能力主義というほどでもない社会なのです、と平野さんが言っているわけだ。日本と欧米の違いというものでもあると、この辺りはやはりお二人の指摘が入った点ではある。ただ、日本も確実に能力主義にシフトしつつあるのも事実なのだ。 ま、実力という抽象的なことでいうならお金だけではないので、この本のタイトルとして忠実にいうなら、チャンスはお金や学歴のある人の方が多いから、それは威張ることではないという感じではないではないか。 100%...

日々の考察 vol.15 1匹のヒトという生き物として生きること

  このところ、いわゆるフラッシュバックというもののあまりの連続に発狂しそうである。 わたしの部屋で 夜を徹して行われた父と母からの折檻 の光景、その後に必ず迎えた朝の光景、助けに階段を登ろうとしては止められてしまう祖母の存在、そんな毎日をただ耐えている時に感じた無力さと絶望。 繰り返された「お前は必ず他人に迷惑をかけるから何をするにも絶対に他人を巻き込むな」「どうせお前の考えることはろくなことじゃないから、好きに生きていけると思うな。そうしてもそう思うなら出ていけ」「授業料をこっちは払わなくてもいいんやぞ」 今もわたしはきっとあの絶望の空間にいる。あのいちいちの発言でわたしは毎回心を削り落とされたし、きっともう今はわたしの心というものは残っていない。結果的に破壊されても仕方がなかったと改めて思うのだ。そんな言葉を、わたしは本当にしょっちゅう夜から朝まで土下座をしながらきいていた。わたしと父との会話を全部足したところで、わたしが土下座をしないで話した時間の方がきっとすごく短いだろう。それくらいにいつも必ず長時間にわたってであった。 ずっと「じゃあなぜわたしはこうやって存在しているのか」と疑問だったが同時にその「答え」もその時両親は口にしていた。 「神様から預かったと思うから育ててやっているけどこんなんじゃどう顔向けできるのかわからん、こんな子で恥ずかしい」 自分でも不思議なのだが、この発言を当時(中学校から大学に入ってしばらく経つまで)何度も聞いているうちに「親としてなんと無責任な表現なのだろうか」とだけは思うようになってきた。口には出せなかったけれど。あ、一度高校生の時に担任の教師にあまりにも不思議だったので、その疑問をぶつけたことがあった。今思うと、その担任は、前提としての情報がない中で「神様」のくだりだけを突然言われても、きっとわけがわからなかっただろうと思う。でも掴める藁を探していたわたしとしては、また周囲の大人を諦めていくことになっていた。 そんな数えきれない体験を通していく中で、結果的にわたしはひとつの法則のようなものをゲットしてわたしの心の奥底に敷いておいた。 「人間と人間関係は信じるに値しない」「本人の都合でいつでも裏切る」「自分と接しているときに見えている人柄が全てではない」そして人間というのは「所詮その程度の 動物である」 もはやそれは怖...