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ミン・ヒジンよ、大丈夫、あなたは素晴らしいクリエイターなのです!!!

               [4K] ミン・ヒジン 、暴言乱舞記者会見で悔しさを訴える...「ハイブが私を裏切った」           いわゆる、大本営発表ほど頼りないものはない。だからこそ、あまりにも粗雑な大本営発表を丸出ししたニュースの数々をわたしはそんなに簡単に信じてはいけないと思っている。  やっぱりか。ここ数日の韓国メディアを賑わせているHYBEvsミン・ヒジン。 いやはや当初からあまりに不自然なニュース「ミン・ ヒジン、HYBE乗っ取りか」に接したので、あまりに疑わしかった。なのにおそらくHYBEの目論見通りにソースのない情報を垂れ流すマスコミの思うがままに、全く事実関係を合わせていけない。全くなあ、もう、とつくづくちょろいなあと悲しくなった。 それと同時に、何が情けないって、HYBEよ。 こんな会社になっちまったの? とかくきっと韓国も、日本もおっさんというのはいつも理屈より数の論理で押し通す。 元々HYBEという会社は、こういう対処のやり方のできるように作られているのだ。 そして、御多分に洩れず、アーティスト保護の観念がない。 そもそも、ミン氏もかなり一人のアーティスト色の強い独立心の強いプロデューサーだ。そして他所からHYBEに来てくれて大きな利益をもたらした事実もある。その割に会社からこの仕打ちではリスペクトがない。 あ、誰彼構わずパクったパクったという報道も、実はそれほどではないとわたしは思っている。そこまで常軌を逸した発言を、クリエイティブな人は言わないものである。すごいことを流させるんだなあと実感したものだ。 この構図は、ある意味わかりやすい話だ。 HYBE、つまりパン氏が、この間はっきりしっかりとした意見を持っていて、言うことを適当に聞いてくれない若い女性であるミン氏を嫌い始めた。いちいちめんどくさい存在と思い始めたのだ。ミン氏がいなくてももういいや、とでもいうように。 そうなると、BTSのいないうちになんとかしなきゃと思ったのだろう。彼らがいればアーティスト保護の観点の欠落により、HYBEが叱られるからだ。パン氏を叱れるのはBTSくらいなものだ。だから今のうちに、てなものだろう。NewJeansたちのことも一番蔑ろにしているのはHYBE側なのだろう。 今日ミン氏が記者会見を開いた。 基本的にミン氏はいつもNew jeansを...

日々の考察vol.21. オッサンとオバハンのバグについて

  先日、京都市障害保健推進室と右京区役所障害保険福祉課、わたしの相談員やカウンセラー、補助人と一緒に初めてのスタイルでケース会議というものを経験した。 いかにわたしがこの数ヶ月に渡り、右京区役所と断絶するに至ったかの検証と、今後に向けて新たに改善すべき点を模索するために開かれたものだと思っていたし、実際の目的はそのはずだった。 が、実際に会議が進むにつれて、右京区役所がいかに差別的な、つまり間違った認識で物事を「理解」してきたかを実証するものとなった。 多少の言い訳ならまだしも、自分達は間違っていなかった、皆さんもそう思うでしょう?とドヤ顔で語る言葉の一々に全く信憑性がないままで噂や陰口のみを信じ、多くは自分たちの偏見丸出しでやってきたことだよ、それは当然ですよね?という内容だったのだ。 あれでは、京都市もドン引きである。 本当に右京区役所はかなりガラパゴス化しておる。ここまでとなると、いっぱしの非常事態ではないか。 きっと彼らは庁舎に戻る道すがら、さぞかし頭を抱えていたことだろう。 しかし福祉業界の多くの不都合なことというのは、大体そんな小さな偏見から生まれていてこのように肥大化する。 「この人とわたしは全く違う人間であり、この人が大変なのはこの人の問題にすぎない」 そんな価値観というのは残念ながらかなりの割合で、支援する側に存在する。 わたしは自慢じゃないが当事者なので、そんな感覚をこちらも感覚のアンテナでキャッチする。かなり早い段階で。 でも、それを一々出だしからわあわあいうことはない。 でも、時折それに気づいて欲しくて言葉にしてきているのだけど、段々とその壁が大きくなってしまい、関係が破綻するのだ。 絶対に自分はこんな人生になるわけない。 絶対に自分は障害者にならない。 絶対に自分は病気ではない。 絶対に自分は生活保護を受けたりしない。 あなたはどう思いますか? 出だしでは確かに小さな偏見だったかもしれない。でも、誰もが後々まで放っておいたら、大きな差別の壁になる。 そしてそんな意識のずれは修復しようのないものとなってしまうのだ。 同時にそのときに補助人の二人もそこにいた。一人はちゃらんぽらんなおっさんだが、もう一人、自分の感情に支配されやすい女性がいる。後者の女性の感情の起伏が激しくて、実際に支援を受けていたらとても困ることが多い。それで何度も注...

『正欲』 Netflix  正しくないという生きにくさ

このところ、何かと正しさとか正しくあることを求められすぎている気がして、正直言って非常に息苦しい。 何かを正しいと決めることは、本来とても労力の必要なことだと思うのだけど、このところはその正しさという紐で縛り合うのが文化みたいになっている。 わたしはこの点において正しいのであなたも正しくしてください、みたいな。 どうしてそうなったのか知らないが、奇妙なプレイである。 本来自分は他人の気持ちを理解することができないものである。そのことが怖いのか、せめて(勝手に)正しくあればいいという落とし所を作っているだけに思える。 よくいう、ポリティカルコレクトネスというものですら、その実態は、単に個人の感想を尤もらしく主張するという手段として意味だけが変化してきている気がするほどだ。 そう、日本語の社会では、「コレクトネスを達成するには」という課題に対して「尤もらしくいうこと」、という結果で済むような、言葉そのものの意味を変えてしまうことへの抵抗がなぜかあまりない。そんなあやふやさが割と罷り通ってしまう文化がある。 その果てに今どんな世の中か、というと誰もが生きにくく、誰もが適応できかねる社会になってしまった。 自分が「弱者」と思うのかどうかという違いだけで、一見強者に見えていても、その実は恐ろしく脆く儚いものである。 以前は、「明日は我が身」というような発想で取り組めばまだなんとかなったと思うが、今はそうじゃない。 本当に今の世の中は、既に生きにくいと感じる人ばかりではないだろうか。例えそうじゃないと思う人がいても、今の価値観においてはただの鈍感な人に過ぎなく、その人もまた実際には生きにくいはず、という社会である気がする。 しかし、社会のシステムはそんな人々の感情の変化についていけるわけもなく、あまりに敏感な今の世代ではそれを変革するだけの体力がない。誰もが生きづらくて我慢しているなら、お前も我慢しろというような。 これはとても困った話なのだ。 昭和か。水を飲めない部活のようなスパルタぶりだ。 その結果、世代間ギャップというより社会全体が社会的弱者であるという奇妙な事実。この現実をどうしたものか。鈍感な社会に対して敏感な人たち。みんな水に飢えてカラカラなのだ。 この映画において、中心にいるのは非常に生きづらい人たち。正直言ってその趣味嗜好は共感しにくいが、彼らの生きづらさは伝わ...

日々の考察 vol.20 かわいそうな弱者でいてくれ という難題

このところ、すっかりニュースを見なくなってしまっていた。 そうは言ってもいろんな事件やなんやかやが起こるたびに「一体どうしてこんな事件が起こったのだろう」「何があってこんな犯行を企ててしまったんだろう」と興味があるものだから、常々割といろんな考察をするYouTuber番組などを見ている。 大抵は過去の大事件にまつわるものであるが、今日のニュースはどうにもこうにも複雑な心情に陥ったので、ここで記録がてら整理していきたい。 特に最近のお気に入りは、「犯罪学教室のかなえ先生」という方。 この方は、デキる官僚というか、難しいことを非常にわかりやすく説明してくれる、生きにくいと思いながら暮らしている人たちの「よき理解者」である。 元少年院の教官であるという経験を非常に上手なお話ぶりで生かしながら、大きなニュースを理解しやすく教えてくれる。事実関係のリサーチもとても詳しくて、知識が少ない状態で聞けば聞くほど、その膨大な情報を、竹を割ったような解釈で語るお話しぶりは圧巻である。 しかし、わたしはご本人もたびたび言及されていることでもあるが、根本的に誰かの言い分が全てとは限らないと思っている。特に普段から、なんらかの事象の一つの解釈を鵜呑みにするのはかなり危険なことだと思っているからだ。しかも、先ほど「竹を割ったような」と言ったが、先生は、かなり断定的な表現が多いため、ともすれば自然と「そうだったのか」と思ってしまうような場面が多い。つまりそれが抜群の説得力をもったプレゼン力というものなのだ。 だからこそ、有益に思う部分、反面教師に聞く部分をいつもこちらが冷静に判断しながら聞かきゃならんなあと思っている。 【頂き女子りりちゃん】詐欺や脱税に手を染めたパパ活女子さん、殺人罪並みの求刑を言い渡される【Vtuber解説】 さてさて、そんな先生が、「頂き女子りりちゃん」という方の裁判について解説していた。お気に入りのホストに入れ込んで、貢ぐお金を稼ぐために、詐欺をおこなって懲役と罰金を求刑されていた裁判について。 この「頂きさん」に限らず、いわゆる「女子に嫌われやすい女子」というキャラは確かに女子に叩かれやすい。しかし、この件での求刑の重さに多くの人たちが反対の声が上がっている、という意見について先生は大層驚きながら、「パブリックエネミーだ」と反論していた。 この方は官僚出身でもあり、普段...

グッド・シリアルキラー ホラー映画なのに笑えてくる来るべき未来の映画

わたしの実家では  欲しいものがあれば、どうしてそれが欲しいのか、なぜそれが必要なのか、購入のための趣意書を作成して親の許可をもらわなきゃならなかった。 当時はネットもなかったのでそのやり方か、もしくは自分で稼いで買うように、と言われたからわたしは高校生の時からとにかく必死でアルバイトをしていた。 そんなこんなで年齢を重ねるにつれ、自分の都合で楽しみたい趣味もできたし、それを満喫できる空間も欲しかったのだと思う。思う、というのはいまだにわたしには、プライベートというものの線引きによる実感がピンとこない。実家では、わたしの部屋に内鍵をつけることは許されなかった。一回、わたしが相当な年齢になってから部屋を改築したときに、扉を付け替えることになってたまたまそこに内鍵がついていることを知った母が、あられもなく発狂しそうになったのを見て、わたしは本当にこの人はわたしがそういう空間を持つことを許せないのだと不思議に思った。変な感想ではあるけれど、その執念を思うと逆にわたしはそれまでのことが腑に落ちたし、心から奇妙にも感心したのだった。 中学生の初め頃、当時駅で気に入ったポスター(なぜか「いいちこのポスター」とかが好きだった)を駅員さんにお願いして取っておいてもらってそれを持って帰ったりしていたのをアート気分で部屋に貼っていた。わたしはいつもそれを気に入って眺めて過ごしていたのだが、ある日帰ったら全てなくなっていた。その光景はとても衝撃的だった。 わたしはなんとなく父によるものかなあと思っていた。またなんか気に障ったんだろうと思った。でも確かめなかった。 随分経ったある日、いつものように母があれしろこれしろ、あれはするなこれはするなと色々話していた時に、「あんなしょうもないもんを壁に貼る暇があったら」と言った。ん?「お母さんやったの」「そうだけど?」「お母さんやったのか」 「破って捨てたわ」 「なんでそんなことをできるの」 「なんなん?そんなにいうほどのもんでもないやん。欲しかったら買ってきたらしいやん。ほら、財布渡すわ」 そう言って母は財布を投げた。まるで母が被害者みたいだなあと思った。 「もういいわ」 「早く買ってきなさいよ。そんなにぶつぶついうなら出ていって好きに暮らしたらいいやん」 そんな母の言葉を背にわたしは部屋に戻った。 そうだったのか、母だったのか。そんなふ...

日々の考察 vol.19 嫌な予感が「正解」となる確率について

 ここ一年というもの、本当になかなか苦心したものだったと言えると我ながら思う。 何のために?というとそれは、ただ生きていくために、ということに過ぎない。 たくさんの一方的な、つまり暴力的な出来事をわたしの家で繰り広げて去っていった事業所と区役所の人たちの『仕業』についての事後処理に、まだまだとても新たな支援が追いつかないのである。 最終的に、右京区役所については京都市役所がやっと動いてくれるとい一報が入り、自分でも驚くほどの安堵をしていたのだった。 その安堵というものの実体として、その連絡をもらったのはお昼頃だったのだけど、夕方入浴した際にわたしの両腕のみに覚えのない湿疹がびっしり出ていたのだった。 痛くも痒くもない湿疹はストレスだった。自覚のない部分のストレスがやっと解放されて顕在化したもの。 今までいろんな症状を体験してきたのだけど、この体験は初めてだった。 ああ、わたしは思っていたより大変だったんだなあとわたしは初めてそのときに自分を褒めたくなったのだった。 何もまだ解決したというものでもないのに、それが形となったものではないのに、勝手に市役所の方の姿勢が変わったことで、安堵していた。それくらいわたしは嬉しかった。 支援にまつわるトラブルを経験していて、あるフェミニストの方が言った「それは性暴力の案件の取り扱いに似ている」という指摘の重さを毎回感じていた。 つまりこれは「支援という暴力」とも言える。 性暴力の問題の取り扱いにおいて、そもそも性行為というものの捉え方が違う際に、同意のあるなしが現実的な確認事項となりうるのだけれど、支援という言葉というものの受ける側とする側の捉え方が違うときに同意を得ずに一方的な支援を貫くことが、全く構図として同じなのではないか、また事後にこんなことをされたと言っても、やってくれたことについてそういうふうに取らなくてもいいのではないか、という言い聞かせのような弁解も聞くことになる。 本来、支援の時間というものは両者にとって有意義であることでもあり、決して我慢の時間ではないはずなのだ。だからその一方的になりやすいことの問題性について、もっと重要視すべきなのだ。そもそも、物理的に「力」のあるのは支援する側の方なのだ。その点について支援の場はそれほどイーブンな場ではない。そもそも支援者は、圧倒的に「力」がある存在でなければならな...

科学はおっさんのものなのか 『キング・オブ・クローン』netfrix

https://www.netflix.com/jp/title/81516199 学者バカという言葉がある。 決して褒め言葉でもない、結局のところ、極めて既存の男性的な狭い了見で好きな分野だけしかものを知らない人のこととなるのだろう。研究対象のことしか知らないような人。 まあ、おっさんに多い。学者でもないのにそもそも狭い世界観でしかものを見れなくなるようなこと自体がおっさんの感覚でしかないから困ったものだ。しかもその狭い自分の世界に対して無駄に高すぎるプライドもあったりするから非常に迷惑なのだ。 このドキュメンタリーのおっさんもただの学者バカである。「科学者として当然のことです」と何度も彼は言うが、その前にあなたは人間でしょうが、と見ていて思った。勝手に「科学者」と言う言葉をカテゴライズして、印籠のように使う時点で彼は本来の意味での「科学者」としてダメなやつなのだ。だと言うのに、なんという傲慢さだろうか。 つくづくおっさんという人たちは折に触れて自分の言動の正体について考えてみるべきなのだ。日本は「専門家」ばかりで細分化した縦割り文化であるとわたしは思うのだけど、そうやってお互いの分野にあまりにも関与しないことばかりをやってきたから、他のおっさんの不正に甘い。「よそはよそ、うちはうち」とも言わんばかりに。社会的構造がそうなったまま結構長くなってきたことで、おっさんは連携することが非常に下手である。変にプライドばかりを刺激しあったりしてしまい喧嘩になるか、それが嫌すぎて関与しないという力が働いてしまうのだ。結局自分を守るために他者に関わらない、そういう内向きで狭いところで生きるしかないことを自ら強いるのがこの国でもいろんな団体のやり方になっている。 小さな組織になればなるほど、小さな権威しかないから無駄に大きく見られるためか、暴力的なおっさんがいたりする。 わたしが若い頃までは、当たり前に男性だけがリーダー役を買って出るものだった。優秀なのはいつも男性だと言う幻の歴史的な刷り込みによるものである。 そんな男性の生き方を見てみると、たいてい異常なほど生活にまつわる部分の能力が欠落していることが多いと思う。幼少の頃は母親が、大人になれば妻が、など過程の時点で既に主に女性の誰かがいないと生きることができない。「妻の支え」というが、それはつまりれっきとした支援とも言えるだろ...