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日々の考察vol. 24 ハラスメント加害者に望むこと

最近、あちこちに流出した官僚の始末が非常に悪く、とてもとても日本の政治によくない出来事をもたらしている。 今話題の兵庫県知事も官僚の天下りでもあるし、他にも地方自治があちこちで悲鳴を上げ始めているところには、本当によく元官僚が絡んでいる。 彼らは、他の立候補者との差別化を図るときに、「インテリっぽさ」を武器にしがちで「さすが頭がいいのですね」と言われることも多い。実際は中身があろうがなかろうが、しつこく屁理屈を繰り広げてでも食い下がったりするので余計に目立つだけなのだ。 旧態依然とした慣例に基づきがちなおっさんの政治やその世界に怯まず切り込んでいくその姿に、かっこよさと憧れを感じて淡い期待をしてしまう若い人たちを支持層とするのだ。 しかし、考えてみてほしい。 彼らは「官僚」であった人たちである。官僚の仕事とは 今どんな環境でおこなわれているのか。一体彼らはどこからきてそこはどんなところだったのか。 霞ヶ関というところは、今の日本の公務員の中でもずば抜けてブラックな職場である。長い受験戦争をトップでくぐり抜けてきた彼らは、そこで「働くとはこういうものか」と仕込まれる。この国では珍しいほどに高いプライドを持ちながら、「政治家」というだけのいい加減なおっさんの我儘に付き合わされるのである。一般的にそんな理不尽な職場ならとうに改善されていてもおかしくないのだけれど、なかなかそうはいかない。 愚民のように制度そのものをひっくり返したりすることを、エリート官僚は望まないからだ。彼らは元々ある型を崩すような考え方はしないのである。なぜなら、政治(型)を動かしているのは実際には自分達なんだという自負があるからである。 かくして出来上がった「官僚崩れ」というか官僚の天下りとなる人材の歪みは生じているのではないか。 国政に携わる政治家のように横柄で、とんでもないエリート意識に支えられたプライド。もうすでにやりにくいタイプである。 わたしは常々人がその人にとって適切なプライドを保ち、他者のプライドを尊重する ことはどういったことか、とよく考える。 そういった場面では、多様性に基づくその人それぞれの事情を踏まえたものが想定されるが、それと違って先ほどから述べている官僚のプライドというのは、どうも非常に画一的な気がしてならない。自らを自動的にその集団においてずば抜けたエリートと振り分ける設定...

VOL.23  父が死んだ日

  今日、父が亡くなったらしい。メールで知った。 変な気持ちだ。 ドキドキと動悸がしたし、オロオロと何をしたらいいかわからない。何をしたいのかしたくないのか、わからない。 あー、ほんまにうちはいつも突然だなあとか、式に行けば妹に会って何を言われるかわからないし怖いなあと思ったり、どうしたものかという戸惑いと、嫌すぎてスルーしたい思いと、これからまた色々と面倒なことが起こりそうな嫌すぎる予感と。 場違いなことであるのは承知しているが、何もわざわざ父の葬式だからと、妹に再会したくなさすぎて、できればやはりわたしは妹に会わないで済ませたい。 ああ、わたしの人生で一番大変だった人が亡くなったのかあと思う一種感慨深いような気持ちと、その父の若い頃とそっくりになってしまった妹にあうことでまた繰り返してしまう恐怖と。 ある友人が圧倒的にシビアな言葉をそんな揺れてるわたしにくれた。 「ほっといたらええ」 もちろんわたしの家族のこれまでをよく知っているからこその言葉なので、決してただの偶然に出た悪口ではないのだけれど、わたしの中にもある残酷で辛辣な部分をこうやって引き受けてくれてよかった。 で、わたしはどうしたいのかとかいうこと以前に、実は今、びっくりし過ぎて感情や感覚がかなりふわふわしているままでそれがなかなか治らない。 きっとそれなりの言葉のやりとりはできるんだけど、自覚としてはかなり薄い感じ。こういう解離症状のようなものは久しぶりなのだ。 困ったな、そういう言葉ばかりが浮かぶ。 人が亡くなるといろんな物事が怒涛の勢いで進むのは誰でもそうなのだけど、なぜかわたしの実家は突然亡くなるパターンが多いので、今回もまた父の死を取り巻く物事についていけていない自分自身にただ困ったなと呟くしかできない。 わたしの実家にわたしの存在はあったのだろうか。 父の中にもあったのだろうか。 わたしは実家でいつしか全員のサンドバッグだった。 そんなわたしが、父が亡くなったと言ってわざわざできることはない気がする。 「理想的な」娘像としては、それでも「わたしは長女なんですから」とか「産んで育ててくれてどうのこうの」と心にもないことを言いに行くことを求めるんだろうけど、 サンドバッグにしていいと思われていた娘にもそれは有効なんだろうか。 普通に、ただの悼む娘、ではいられない気持ちがある。 一つだけ今...

日々の考察 vol.22 虐待って終わるのか。どうやったら終わるのか。

最近とてもえげつないニュースが多い。 どうやらあっちこっちの公務員の方々が無茶をしているようで、記者会見ばかりが目につく。 あっちでペコペコ、こっちでペコペコ、合間に開き直るやつやら、おっさんというのは本当に人の事情より自分の事情なんだなと思う。 ここのところ、虐待によって起きるニュースも多く、その度に児相だの施設管理者だののおっさんが似たようなことを言い訳しながら謝罪しているのだ。つくづく奇妙な時代である。虐待はかなり熟練の第三者によって判断されてしまうくせに、その判断の基準は被虐待者の気持ちによるという責任逃れな構図があるから、結果的になかなかいい加減なことになり、結局悲劇は起こるべくして起こる。こういった相談機関は、すぐに「業務としての関わりの限界」を言い訳にするが、そのような方は、そもそもそのような職業に向かない。自分の立場のために判断することを嫌うような大人が子供を助けることは無理なのだ。後から悔やむことは誰でもできるが、命を救うことの責任が取れないなら、そもそもいない方がいい。 業務の前に一人の人間であることを忘れてしまうような人は福祉業界にいてはいけないのだ。 これが公務員というものかと実に情けない。自分の愚かさを競い合ってどうする。なぜおっさんにはまともな羞恥心もないのか。 虐待事案において、正直言って自分で今虐待を受けていると自覚できる人は大人でも少ないのではないだろうか。やっている側もそうかもしれないけれど。 本人としては、ただそのようなものとひたすら教えられるとともに、圧倒的な受け身でしかないからだ。だいたいその空間には、真っ当な常識的モラルはないのだ。だから良識ある第三者がその常識的モラルにおいて介入して支援しなければ助けられないのだ。ややこしい理屈を捏ねていることと命を助けることはどちらが優先されるか、それこそ本来悩むまでもないことのはずなのだ。つまり根本的に命を助けない理由というのはありえないからだ。 さてわたしの育った環境は、その点においてとても酷かったみたいだ。 そんな過去の一コマを話すにしても、毎回毎回「実際あったよりひどく話していないだろうか?」とわたしは自問自答する。表現し難い暴露に伴う罪悪感や、この期に及んで事態を矮小化しなきゃという気持ちが瞬時に働き、それが実はとても疲れるのだ。自分の中の気持ちがとても巨大な綱引きをするみた...

ミン・ヒジンよ、大丈夫、あなたは素晴らしいクリエイターなのです!!!

               [4K] ミン・ヒジン 、暴言乱舞記者会見で悔しさを訴える...「ハイブが私を裏切った」           いわゆる、大本営発表ほど頼りないものはない。だからこそ、あまりにも粗雑な大本営発表を丸出ししたニュースの数々をわたしはそんなに簡単に信じてはいけないと思っている。  やっぱりか。ここ数日の韓国メディアを賑わせているHYBEvsミン・ヒジン。 いやはや当初からあまりに不自然なニュース「ミン・ ヒジン、HYBE乗っ取りか」に接したので、あまりに疑わしかった。なのにおそらくHYBEの目論見通りにソースのない情報を垂れ流すマスコミの思うがままに、全く事実関係を合わせていけない。全くなあ、もう、とつくづくちょろいなあと悲しくなった。 それと同時に、何が情けないって、HYBEよ。 こんな会社になっちまったの? とかくきっと韓国も、日本もおっさんというのはいつも理屈より数の論理で押し通す。 元々HYBEという会社は、こういう対処のやり方のできるように作られているのだ。 そして、御多分に洩れず、アーティスト保護の観念がない。 そもそも、ミン氏もかなり一人のアーティスト色の強い独立心の強いプロデューサーだ。そして他所からHYBEに来てくれて大きな利益をもたらした事実もある。その割に会社からこの仕打ちではリスペクトがない。 あ、誰彼構わずパクったパクったという報道も、実はそれほどではないとわたしは思っている。そこまで常軌を逸した発言を、クリエイティブな人は言わないものである。すごいことを流させるんだなあと実感したものだ。 この構図は、ある意味わかりやすい話だ。 HYBE、つまりパン氏が、この間はっきりしっかりとした意見を持っていて、言うことを適当に聞いてくれない若い女性であるミン氏を嫌い始めた。いちいちめんどくさい存在と思い始めたのだ。ミン氏がいなくてももういいや、とでもいうように。 そうなると、BTSのいないうちになんとかしなきゃと思ったのだろう。彼らがいればアーティスト保護の観点の欠落により、HYBEが叱られるからだ。パン氏を叱れるのはBTSくらいなものだ。だから今のうちに、てなものだろう。NewJeansたちのことも一番蔑ろにしているのはHYBE側なのだろう。 今日ミン氏が記者会見を開いた。 基本的にミン氏はいつもNew jeansを...

日々の考察vol.21. オッサンとオバハンのバグについて

  先日、京都市障害保健推進室と右京区役所障害保険福祉課、わたしの相談員やカウンセラー、補助人と一緒に初めてのスタイルでケース会議というものを経験した。 いかにわたしがこの数ヶ月に渡り、右京区役所と断絶するに至ったかの検証と、今後に向けて新たに改善すべき点を模索するために開かれたものだと思っていたし、実際の目的はそのはずだった。 が、実際に会議が進むにつれて、右京区役所がいかに差別的な、つまり間違った認識で物事を「理解」してきたかを実証するものとなった。 多少の言い訳ならまだしも、自分達は間違っていなかった、皆さんもそう思うでしょう?とドヤ顔で語る言葉の一々に全く信憑性がないままで噂や陰口のみを信じ、多くは自分たちの偏見丸出しでやってきたことだよ、それは当然ですよね?という内容だったのだ。 あれでは、京都市もドン引きである。 本当に右京区役所はかなりガラパゴス化しておる。ここまでとなると、いっぱしの非常事態ではないか。 きっと彼らは庁舎に戻る道すがら、さぞかし頭を抱えていたことだろう。 しかし福祉業界の多くの不都合なことというのは、大体そんな小さな偏見から生まれていてこのように肥大化する。 「この人とわたしは全く違う人間であり、この人が大変なのはこの人の問題にすぎない」 そんな価値観というのは残念ながらかなりの割合で、支援する側に存在する。 わたしは自慢じゃないが当事者なので、そんな感覚をこちらも感覚のアンテナでキャッチする。かなり早い段階で。 でも、それを一々出だしからわあわあいうことはない。 でも、時折それに気づいて欲しくて言葉にしてきているのだけど、段々とその壁が大きくなってしまい、関係が破綻するのだ。 絶対に自分はこんな人生になるわけない。 絶対に自分は障害者にならない。 絶対に自分は病気ではない。 絶対に自分は生活保護を受けたりしない。 あなたはどう思いますか? 出だしでは確かに小さな偏見だったかもしれない。でも、誰もが後々まで放っておいたら、大きな差別の壁になる。 そしてそんな意識のずれは修復しようのないものとなってしまうのだ。 同時にそのときに補助人の二人もそこにいた。一人はちゃらんぽらんなおっさんだが、もう一人、自分の感情に支配されやすい女性がいる。後者の女性の感情の起伏が激しくて、実際に支援を受けていたらとても困ることが多い。それで何度も注...

『正欲』 Netflix  正しくないという生きにくさ

このところ、何かと正しさとか正しくあることを求められすぎている気がして、正直言って非常に息苦しい。 何かを正しいと決めることは、本来とても労力の必要なことだと思うのだけど、このところはその正しさという紐で縛り合うのが文化みたいになっている。 わたしはこの点において正しいのであなたも正しくしてください、みたいな。 どうしてそうなったのか知らないが、奇妙なプレイである。 本来自分は他人の気持ちを理解することができないものである。そのことが怖いのか、せめて(勝手に)正しくあればいいという落とし所を作っているだけに思える。 よくいう、ポリティカルコレクトネスというものですら、その実態は、単に個人の感想を尤もらしく主張するという手段として意味だけが変化してきている気がするほどだ。 そう、日本語の社会では、「コレクトネスを達成するには」という課題に対して「尤もらしくいうこと」、という結果で済むような、言葉そのものの意味を変えてしまうことへの抵抗がなぜかあまりない。そんなあやふやさが割と罷り通ってしまう文化がある。 その果てに今どんな世の中か、というと誰もが生きにくく、誰もが適応できかねる社会になってしまった。 自分が「弱者」と思うのかどうかという違いだけで、一見強者に見えていても、その実は恐ろしく脆く儚いものである。 以前は、「明日は我が身」というような発想で取り組めばまだなんとかなったと思うが、今はそうじゃない。 本当に今の世の中は、既に生きにくいと感じる人ばかりではないだろうか。例えそうじゃないと思う人がいても、今の価値観においてはただの鈍感な人に過ぎなく、その人もまた実際には生きにくいはず、という社会である気がする。 しかし、社会のシステムはそんな人々の感情の変化についていけるわけもなく、あまりに敏感な今の世代ではそれを変革するだけの体力がない。誰もが生きづらくて我慢しているなら、お前も我慢しろというような。 これはとても困った話なのだ。 昭和か。水を飲めない部活のようなスパルタぶりだ。 その結果、世代間ギャップというより社会全体が社会的弱者であるという奇妙な事実。この現実をどうしたものか。鈍感な社会に対して敏感な人たち。みんな水に飢えてカラカラなのだ。 この映画において、中心にいるのは非常に生きづらい人たち。正直言ってその趣味嗜好は共感しにくいが、彼らの生きづらさは伝わ...

日々の考察 vol.20 かわいそうな弱者でいてくれ という難題

このところ、すっかりニュースを見なくなってしまっていた。 そうは言ってもいろんな事件やなんやかやが起こるたびに「一体どうしてこんな事件が起こったのだろう」「何があってこんな犯行を企ててしまったんだろう」と興味があるものだから、常々割といろんな考察をするYouTuber番組などを見ている。 大抵は過去の大事件にまつわるものであるが、今日のニュースはどうにもこうにも複雑な心情に陥ったので、ここで記録がてら整理していきたい。 特に最近のお気に入りは、「犯罪学教室のかなえ先生」という方。 この方は、デキる官僚というか、難しいことを非常にわかりやすく説明してくれる、生きにくいと思いながら暮らしている人たちの「よき理解者」である。 元少年院の教官であるという経験を非常に上手なお話ぶりで生かしながら、大きなニュースを理解しやすく教えてくれる。事実関係のリサーチもとても詳しくて、知識が少ない状態で聞けば聞くほど、その膨大な情報を、竹を割ったような解釈で語るお話しぶりは圧巻である。 しかし、わたしはご本人もたびたび言及されていることでもあるが、根本的に誰かの言い分が全てとは限らないと思っている。特に普段から、なんらかの事象の一つの解釈を鵜呑みにするのはかなり危険なことだと思っているからだ。しかも、先ほど「竹を割ったような」と言ったが、先生は、かなり断定的な表現が多いため、ともすれば自然と「そうだったのか」と思ってしまうような場面が多い。つまりそれが抜群の説得力をもったプレゼン力というものなのだ。 だからこそ、有益に思う部分、反面教師に聞く部分をいつもこちらが冷静に判断しながら聞かきゃならんなあと思っている。 【頂き女子りりちゃん】詐欺や脱税に手を染めたパパ活女子さん、殺人罪並みの求刑を言い渡される【Vtuber解説】 さてさて、そんな先生が、「頂き女子りりちゃん」という方の裁判について解説していた。お気に入りのホストに入れ込んで、貢ぐお金を稼ぐために、詐欺をおこなって懲役と罰金を求刑されていた裁判について。 この「頂きさん」に限らず、いわゆる「女子に嫌われやすい女子」というキャラは確かに女子に叩かれやすい。しかし、この件での求刑の重さに多くの人たちが反対の声が上がっている、という意見について先生は大層驚きながら、「パブリックエネミーだ」と反論していた。 この方は官僚出身でもあり、普段...