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9月, 2022の投稿を表示しています

「クラウド アトラス」 永遠の命と人間の業は進化を拒みながら転がり続ける

主人公は、6つの時代と場所で、6つの人生を生きる男。その人生は悪人で始まるが、様々な数奇な経験を経て、ついには世界を救うまでに魂が成長していく男の物語だ。2度のアカデミー賞に輝く名優トム・ハンクスが、これまでのキャリアのすべてを注ぎ、次第に変化していくキャラクターを演じ切った。 舞台は、19世紀から24世紀。過去・現在・未来にまたがる500年の間の6つのエピソードが、一見アトランダムな流れに見えて、実はシーンからシーンへのつなぎの一つ一つが完璧に計算された、圧倒的な映像で描かれていく。(公式HPより引用)   同じ俳優があちこちに出てくるから、輪廻についても言いたいのだろうなと思ったが、わたしは個人的には真の赤の他人にこそ同じことが言える気がしている。 この映画においての舞台は6ヶ所の物語として、そこの時代や暮らしぶり全てが違っても、同じことを同じように考えることは、同じ人間でなくても共有できるのではないかと言うこと。 命と社会という人の営みにおいて、それは役割を超えたものであり、普遍的かつ連続的な命題のようなことなのだろう。 それは確信を伴った真実ではないだろうか。 真実は人の数だけある、とかいうのも表裏一体な思考ではないかということである。 とにかくとても面白かった。 命が次へ次へと連なることは明白であるが、そこに継承される真実はいつの時代にも存在するトラブルにおいても同様だし… つまり、命は、輪廻という個人に限定したものではないのかもしれない、そう思った。 そしておっさんはいつの時代にも必ずいるようにも思えた。 やはり本気のさよならおっさんは、ファンタジックな幻想に過ぎなかったと嘆くことになるのだろうか。 そして同じようにそこには、 わたしみたいにさよならおっさん、嫌だなおっさん、という人も存在する。 なんてこったい。 わたし自身、視野をとにかく広げないと!と思いながら生きてきたが、世界ならまだしも過去と未来にもその幅が広がるとは。 そしてそのどこにも共有しうるものになるとは。 希望のかたまりである。 わたしの言動がどうであれ、どこかでおなじように不満があふれたりもするし、それで殺されたりもする。 でも、そんなわたしみたいな人はわたしが死んでも現れる。 おかしいことはおかしいという人。それは身体が死んでも心は滅びない、ということ。 それはとてつもない希...

Britney vs Spears  ストリートファイターの孤独

誰が見ても「なんてこと!」となるこのドキュメンタリー。 ブリトニース・ピアーズの長い長い闘いの記録である。 非常識な父親などに苦しんだブリトニーに非常な親近感を覚えた。だからこそ、ずっと胸が痛かった。腰が曲がるくらい。 この父親にとって「自分の娘」はあくまでも親にとってのツールに過ぎないから、きっと一生「個人としての娘」という概念は理解できないであろう。彼女の一方通行な苦しみを思うと、たまらなかった。 彼女の緊張で休まらない生活の連続を思うと、そうだったそうだったとろくに稼いできたわけでもなかったわたしの人生と感覚的になぜか重なる。 そんなわたしのことで言うと恐縮だけど、いまだにわたしは生活していて「緊張」が取れない。どんなに気を抜いて暮らそうとしても、どこに住んでも緊張が取れない。 週に5回も鍼治療が必要なほどに、緊張が身体に染み付いてしまっている。 これは異常なことなんだとわかっていても、自律神経についてはどうにもならない。 確かにわたしにはお金は大してなかったが、同時にLDの算数障害があることが近ごろ分かった。 だから家族にはそのことを何度も訴えたが、その度に怠惰であるとか馬鹿だとかを罵り続けられた。 お金があろうがなかろうが、きっとこういう父親は子どもを潰してしまう。 現にブリトニーはお金以外にも多くも人や物を失ってきたではないか。 後に一人で生活するにあたり、福祉サービスも利用したがほんの一人の担当者が、わたしの引っ越しによって変更することでまた必要なサービスは行われなかった。 わたしは今、右京区に住んでいて、近々3年目に突入するのだけど、ただの一度も必要なサービスが行われたことはなかった。 さて、家族は今も昔もわたしを罵る存在であった。 そこから出ればもう少し違った世の中があると信じていた。 福祉サービスを受ければもっと人道的な時間を過ごせるのが当然だと思ってきた。 そのうち事実がどの程度なのかと思うと訳がわからなくなる。 結局「家族がDVでした、社会もDVでした」 が正解なんだろうか。 その時、社会において圧倒的に理不尽な父親の役割は誰なのか。 おっさん病のおっさんと違うのか。 何度も言うが、わたしはブリトニーと違う。 お金もないし、発言力も大してない。 この構造的な問題に、アメリカですらなかなか手出しできなかったではないか。 じゃあ、もっと人権意識の...

「天の怒り」わたしの喪失とオッサンの喪失 

はっきりと後味悪い映画である。 大御所の男性作家と元助手、もう一人の作家、こちらは作家希望だった男性、この3人と周りの人たち。この3人の10年以上にわたる物語。 軸は家族の死である。 あと、復讐についてどう考えるか。 アルゼンチンの映画で始終聖書に基づく価値観が出てくる。特に旧約聖書の方が。 元助手ルチアナは、牧師の娘で真面目な女性。 まあまあな大家族で和気藹々と暮らしていた。 それに対して大作家クロウリーは妻と娘の 核家族で、どうも妻が神経質すぎるなあというくらいから物語が始まる。 きっかけはセクハラで訴えたこと。それのせいで家族が一人ずつ殺されていったというのがルチアの主張である。 この大御所は困ったオッサンで、何を自慢したいのか聖書を自分の「復讐心」の当て馬のように使う。 わたしも牧師の娘で小さい頃からまあまあ聖書を読む機会は多かったし、その話はとても身近だった。 でも、あれほど都合よく読めてしまえる書物も他にないなあと今も思う。ある意味矛盾に満ちていて、TPOに合わせて何とでも使える。 しかもそこには、縋り付くような思いで信仰を求める多くの人たちがいた。 わたし個人は、聖書というかキリスト教のモットーは「赦し」というもので、とても好きな考え方だと思っているのだが、それに対して旧約聖書の主は神でありちょっとパワフルなキャラでありまあまあ矛盾するようなことになっている。 それが「復讐」なのかもしれない。 困ったことだ。 それでそのような本来非常に個人的な思いに過ぎない「復讐心」を、聖書という武器で裏付けようとするのだ。 つまり、「神がわたしにそうさせている」という理屈である。 わたしの生育環境がかなり暴力的であったが、そこにもいつも両親だけでなく「神」が存在した。 「お前がちゃんと育つようにする義務がある。なぜなら親は神から預ったんだから」 「神はいつも見ているんだぞ。何もバレないと思うな」 「うまく育たないと神に顔向けできない」 だから、先ほどの復讐についての件をこの映画で語られているのを見た時も、そうなんだよね、この手の人はそう思うんだよね、とある種の納得をしてしまったのだった。 たとえ神に託されたとしても、所詮親は人間だ。 にもかかわらず、神の制裁を実行することを躊躇しない人がいる。 何様なのか。もう一度いう。何様なのか。 それがいつも疑問だった。 そんな...

「さがす」 こういうことなの? 社会の底辺と波瀾万丈は鶏と卵

  腹が立つ。またこの手の話かとも思うし、そんな映画をAmazonにお薦めされてるじぶんに対してもだし、もちろんこの映画の中身に対してもだし、そんな中身の映画にいつも止まる日本映画の一種の限界に対してもだし、腹が立つ。 石ころをその数だけ並べて蹴飛ばしまくりたい。 はっきり言えば、何をどうしたいねんと。お金の問題なのか、福祉政策なのか、生死の倫理の問題なのか、犯罪か。政府か。 こねくり回しすぎて脳みそは今無茶苦茶である。 確かにいつもわたしも現実がカオスだとは痛感してるが、結局なんやねんとイライラしてることを思い出したでしょ。 ひどい映画だと言いたいわけじゃない。問題てんこ盛り、リスク死ぬほど、そんな環境はなぜに?ということなのだ。現実が。ラストで登場する『正義』だけど、それほど『正義』じゃないことはもう観客には伝わってる。 だからこれをお薦めされてAmazonの口車に乗ってみたことそのものに腹が立つのだ。わたしもそんなことでお薦めありがとうというようなチョロい人間じゃないよと。えらい見くびられたもんですな、と。寝ていた子をしっかり起こされた。そんな苛立ち。 あと、貧困や福祉は確かになぜか犯罪との親和性が高いのかもしれないけど、そこの丁寧さを欠けばこういう「どうせお金なんでしょ」みたいな『正義』になってしまう。それぐらいにたった一人の中での『正義』はショボい。 結局社会的に苦しみながら生きるわたしみたいな当事者の人たちはこういう映画をいつもどう思ってるんだろうか。 よく考えたら、そんなことを語り合うようなチャンスも今まであまりなかった。 我々当事者にとって、福祉も貧困も、障害も「ネタ」じゃない。生きる目的でもない。 日常なのだ。日常であるからこそ辛いこともあるし、日常であるからこそ社会保障制度になっているのだ。これは、非常時でも異常時でもない。このことが、一般的にわかってもらえるならいいのだが。 えげつないストーリーだが確かに繋がりも変じゃないし、むしろスムーズだ。 「社会の底辺を苦しみながら生きる大阪の父と娘。彼ら人生をのジェットコースターサスペンスで」のような違和感。 あ、そうそう、大阪の下町にいきなりUSJができた時のような違和感。 USJは好きだけど、ここで?みたいな慣れなさと、違和感に基づく不思議さと。 でももう当たり前になった、ということは、本当...

「39歳」 不都合な真実の破壊力

  人生においてできれば出会いたくない出来事というのはいろいろある。 そんなことに出会った3人の親友たちが何を考えて何に悩んでどうするのか、そんな物語。 それぞれの境遇において怖くて触れなかったこと、気持ちを表すことの難しさ、大人なのに傷つく事への恐怖と傷付けることの回避、それでも無慈悲に起こる大きな出来事への適切な対処、年相応というプレッシャー、複雑すぎる時期のドラマである。一人一人の言葉がいつも愛おしいのはきっと限られた時間の中で最善を尽くす気持ちによるものなのではないだろうか。 例えば、地震雷火事親父という表現に含まれること。 ①地震 今のところ人生で一番辛かった時期に、何度か生きていけそうにないと思って大量に服薬した。両親はそのようなことで救急車を呼ぶ人たちでないのをわたしは知っていた。何度目かで目覚めてまた生き延びた事への重い後悔をしながら、ぼうっとテレビを見ていた。ずいぶん時間が経って、なんかおかしいと思った。番組らしいものがない。ずっと瓦礫を映し続けている様は異様だった。 「何かあったん」母に尋ねたところ、東北の方で大きな地震があったという。それでテレビも何もかもがいつもと違うことになっていると知った。 その後たくさんを考えた。わたしの命について、日々増えていく犠牲者の命について。 わたしはどうしたらいいのだろう。わたしの人生をどうしたらいいのだろう、と。 できることをひとしきりやってみよう、それでダメならその時また考えよう。そんな非常に暫定的な考えにしか辿り着けなかったけれど、それ以来わたしの意識は変わった。誰かがどう言うとかにかかわらず、今日死んでも後悔しないように一日を充実させようとそれだけを考えた。主治医を変えてやり直そう、まずそこから始めることになった。 「僕の出した薬でそんなことをされたら困る」それしか言わない当時の主治医が本当に嫌だったからである。 ②雷 小さな頃は嫌いだった。怖かったし嫌だったけど、今は何だかスカッとする。 あらゆるものを押し流してくれたらいいのにとその勢いと迫力に何かを委ねている自分を感じるのも好き。わたしは雷に憧れているかもしれない。 ③火事 ①の頃、実家に住んでいたのだけれどその実家が火事になった。古い住宅だったからコンセントからの発火だったとのことだった。でもそれにより家族は家を失った。 保険の手続きやさ...

「ある告発の解剖」 「正しいこと」はいつも困難である

正しいと間違い、善と悪、そう言う対比を語るとするならば、よく映画やドラマのセリフで 「わたしは正しいことをした」ということをいうセリフがいつも引っかかっていた。 なんだその言い回しは?とニュアンスがわからなかった。 このドラマでもそのセリフは出てくる。 しかし、今回は納得した。わたしは彼女に共感していたのかもしれない。 大抵その「正しいこと」は大いなる葛藤の先に導き出されるものなのかもしれない。 やたらと女性問題の多い議員の妻、その裁判の検事、一般的にはそこの意識が必ず違うとは限らないが、このドラマでは夫が議員というのがミソなのかもしれない。そのせいで、議員の妻は受容し難いような屈辱にも耐えなければならなかったため、裁判にも出席し、イメージアップを信じて夫に協力しようとした。 現実的にはどうなのだろうか。彼女は夫の何を信じていたのだろうか。権力なのかお金なのか、はたまた芋蔓式に連なる自分の立場か。 夫の弁護士も女性だが、検事も女性である。 きっと裁判が始まる段階から妻も含めて3人からその夫への思いはある部分で共有されていたのだろうと思う。 しかし細やかな話である。男女の性暴力事件であるが、被害者の証言の「はじめは良かったが途中からやめて欲しかった」と言うことが争われた。 日本ではおおよそそこまで議論すらできないであろう、繊細な心の機微である。 しかも夫の暴力性も不愉快である。わたしでもただの勘として「こいつはあかんやつ」と頭の中で警告が鳴っていた。 「いやよ いやよも好きのうち」という恐ろしい言葉がある。そしてアホな男はこれを信じている。 そもそも女性の気持ちについて週刊誌のような知識では頑張ったところでその程度である。 相手が自分と同じ人間であるという「事情」をどのくらい人が許容できるのか、それが人間関係の基本にもかかわらず、このえげつない爆弾のような誤解に基づく理屈を持ち込むことで全てが破壊される。他のことが対等であるのに、この件だけそんなに男性のわがままが通るわけがないでしょと言いたい。 相手を尊重すること、敬意を払うこと、多くを許容しながら理解し合うこと、それが心地いい関係の基本だと思う。 でも違う優先順位の軸で生きる人がいる。 その違う軸の人とわかりあうことを積極的に楽しみたいとわたしは思うのだけど、実はそのあたりから相手に拒絶される事も多い。 オッサンの...

「マルモイ ことばあつめ」 わたしの細胞は何でできているのだろうか

言葉というもののありがたみは、じわじわと気づいていくものだ。その的確さ、私たちの場合で言うところの日本語というものの素晴らしさ、そこから起こる日本人である自分へのアイデンティティー、それもこれも言葉から起こっている気がする。 そしてその言葉自体の意味は、使う人の価値観によってどのようにも変わる。 そんな曖昧なものを曖昧にすることなく解説した文章の集合体を辞典というのだと思う。 そして、忘れてはならないのはこの映画で、韓国の言葉を守る人たちと奪う人たちがいて、その後者が日本人だということである。 今の日本の政治がいわば腐りきってしまったことの大きな要因に、歴史認識の改竄と情けないほど幼稚化した政治の力があると思う。腐った鯛の成れの果て、である。 わたし自身いつも役所の人たちと話して思うのは、そのあまりに幼稚な論理とも言えないほどの屁理屈である。正直言ってこんな理屈でこの地区をなんとかできると思っているのかと嘆かわしく思うくらいしか後には残らない。 生活の中でたくさんの言葉が通り過ぎていくときに、どうしてもうまくやり過ごせない言葉が、心に引っかかる。つまりわたしも傷ついているのだ。一生のうちに癒せる量の傷ならいいんだけど。細胞まで破壊されてきたのかもしれない。 長い間、気にしないふりをしてきたこともあり、うまくやれていると思っていた。でも、気にしないふりをしても傷は治らない。じわじわと悪化することはあるけれど。 わたしは3歳の時から京都市の近郊にあるU市にそれはそれは長い間住んでいた。 そして福祉サービスの利用もそこでスタートした。 そこで、いくつかの関わりのあった団体との会話における言葉を通して、物理的にも金銭的にも精神的にも簡単には癒せるわけのないほどの傷を受けてきた。 わたしの部屋を散らかしたので片付けると言って遺品整理の業者をよこし、その多くを廃棄してしまった通所施設もあった。生活必需品の何もかもが無くなった。布団や衣類、日々の着替え、何もかもである。困って購入し補填に充てた費用も補償しなかった。 そこの団体は地域行政や関係各所に厳重に守られたため、わたしがその被害をそのまま受けることになった。わたし自身では支払いができず結局裁判にまで話が進んだ。裁判所にはヘルパーさんだけが付き添ってくれた。 その後、役所の担当者たちがわたし本人不在で話し合い、ある日役所から電...