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メディア論の現在 メディアとアンチ既存メディア論

わたしは年配のおっさんが器が小さいとか内省が足らんなどと 常々おもってきているのだが、先般からオールドメディアがどうだとかネットがどうだとかいう新たな軸も入ってきていて一体なんのことやと興味を持った。そういうわたしはだいたいいつもYouTubeを見ていることもあり、でも実はあまり実感がなかったのだ。 つまりわたしにはまずその分類がわからなかった。 どうして分けたがるのか、その真意が図りかねたのだ。何が違うのかと。 そもそも分けなくてもいいのにとおもっていて、でもそんなことを割とよく言いがち言われがちな方の話を聞いてみようとおもってこの動画を見てみた。メディアと社会についての若い世代の議論を聞いてみようとおもったからだ。同世代のお二人の会話でもあるので、非常にノリノリであるなというのが第一印象だった。 そしてなるほどと確信するに至った。最初のわたしの疑問は、ただのジェネレーションギャップにすぎないのだった。オールドメディアとかニューメディアという言葉を自らいうオールドな人はいないということと同じである。メディアという名前を借りた代理論戦みたいなところがある。結局のところわたしはそう思うに至った。今、国民民主党がなぜか少し人気だけど、その党のいちいちの主張もこういう問題に似たところがある。 若い人たちの発言の場があることによって、「老害」も含むことで発言力の弱くなりがちな「オールドメディア」に対して、これは非常に残念なのだけど「排除的」な思考で対抗する、そう言ったアティチュードに裏付けされた分断・批判なのだ。 なぜ残念だと言ったのかというと、そうすることはいちいちの文化に対しての敬意を感じないからである。つまりそれは変革的であることよりもむしろ排除的である思考を指していっているのだけど、その不戦勝じゃなくて不戦敗をしながら捨て台詞を言うような姿勢がとても残念なのだ。「覚えてろよ」的な話である。そう、昔からある視点である。だから反抗期みたいなもんだと思っているのだ。 問題のある対象にビビって近づけない怖がりが、遠く離れて言ってる「おぼえてろよ」はちょっとカッコ悪い。 きっとそれは自分自身の歴史が浅いことだけでなく、きっと教育システムの中で人類の歴史がいかに今に繋がるのか、そこに向き合うのに必要な一個人としての姿勢を根付かせていないからではないか。倫理的な思考がきちんと学問...

兵庫県知事問題:民主主義の限界と、それでも希望を捨てたくない私たち

斎藤元彦兵庫県知事 NHK出演も質疑かみ合わず 実績誇示にキャスターから制止 告発者捜しは「法の課題にも」ベストの対応主張 9/22(日) 17:35 配信 2009 コメント2009件  斎藤元彦兵庫県知事  パワハラ疑惑による県政の停滞を招いたとして、議会から不信任案が可決した斎藤元彦兵庫県知事が20日、NHK「かんさい熱視線」に出演。キャスターや県政担当記者からの質疑が終始、かみ合わなかった。 【写真】目を真っ赤にして涙ぐみながら答える斎藤兵庫県知事 https://news.yahoo.co.jp/articles/979fb7110840521a205a7b7f0bcadb9cc55527ef 今日も兵庫県知事の問題である。この間とにかくわたしはずっとあまりにも興味深すぎて毎日ニュースに釘付けだった。 県職員に対するハラスメント、それを隠蔽しようとした事実、そして不信任案可決… まるでドラマのような展開だった。でもよくこれはわたしたちが生きている社会そのものの縮図なのかもしれない。だからこそわたしは毎日その問題から目が離せなかったのかもしれない。 あの知事は、自分の非を認めようとしない頑固さで、もはや新手のヒールとしてエンターテイメント性まであった。毎日増えていく、これだけで十分映画化できそうな程のエピソードの多さにも驚いた。 でも、彼の行動は、単に「面白い」だけじゃ済まされない。 彼の言動は、権力者の傲慢さ、そしてそれを取り巻く人間関係の歪みを露呈した。 議会側の対応も、正直、モヤモヤが残る。 確かに知事の行動は問題だけど、あの「集団による排除」のような様相は、見ていて気持ちのいいものではなかった。 まるで、学校で「変わり者」を仲間はずれにするような、どこか残酷な感じが漂っていた。 民主主義社会において、議論を尽くすことは重要だ。 でも、あの知事の場合、どんなに丁寧に説明しても理解できないんじゃないかと、正直思ってしまう。 彼は、自分の行動がなぜ問題なのか、理解できていないし、今後も理解する可能性はないのかもしれない。 でも、だからと言って、議会側が一方的に議論を放棄していいのだろうか? あの知事の「鋼のメンタル」は、ある意味、彼の「頑固さ」の裏返しなのかもしれない。 彼は、自分の考えを変えることを拒否し、周囲の意見を聞き入れようとしなかっ...

日々の考察vol.26 奇しくも詐欺師を働かせた話

  玄関のチャイムが鳴った。 犬が吠えてそれを制しながら扉を開けたら、 「こんにちは。今、無料でいらない家電を集めさせてもらっていますが何かありますか」 割と体格のいい若い男の子が言った。 なんとも言えない奇妙な感じが少ししたけれど、ちょうど該当するものがあって、それを無料で持っていってくれるならと考え合わせたところ、わたしの心の中は固まった。 「じゃ、ちょっと待ってくれます?うち、動物がいて玄関から出てしまうから一旦締めますね」 そう言って大きいものを二つ、玄関に運んだ。わたしの体力ではそれが限界で、一旦その若い男性に上がってもらって運んでもらおうかなと思ったが、なぜかそんな気になれなかった。 「はい、持ってきたわよ」と玄関の扉を再び開けて呼んだ。 「え?」 「集めてるって言いましたよね?いいんですよね?これで」 「あ、はい」 「悪いんだけど、動物が外に出たがるから急いでいただける?」と言って早く持って出てもらうべく急かした。そして改めて「無料だよね?」と何度も確認して「そうです」というので「じゃよろしく」とお願いした。 「あの、ボク、呼びかけて回ってるんで数時間後取りに来ますんで、ちょっと玄関の前に置いておいていいですか」というので「構わないですが、後で近所に怒られたら困るから必ず取りにきてね、悪いんだけど」と強調した。 そして実際に忘れた頃にまた玄関のチャイムが鳴った。 その時は異様に犬が鳴いて、 「なんでそんなに吠えるのよ」と言いながらまた玄関を開けたら 「すいません。さっきのを取りにきました」 と青年が言った。 「あら、あなた別の人?それだからよろしくね。申し訳ないんだけど、ペットが玄関から出たがるから閉めるね、よろしく」 と言って終わった。 ラッキー、なんか知らんけどラッキーと思っていた。 それが詐欺師だったと昨日知った。 知らんかった。 だからあんなに変な表情をしていたのか。 驚いたけど、やっぱり助かった。 よくわからないが詐欺師の人たち、うちに関してはお疲れさまでした。 奇妙なエピソードだった。

日々の考察vol.25 ハラスメントとストレス、ストレス、ストレス?

最近、誰も彼も何かといえば   声高に自らのストレスを主張するようになった。 きっとよく知らないで言って いたりするんだろうなと思える場面も多い。つまり、だからなんやねんみたいな件でも主張すれば通るからだ。 そもそも、ストレスというのは誰にでも何にでもあるものなのだ。嫌だとかしんどいとかの合言葉ではない。物事や現象とのいい面でも悪い面でも起こる摩擦のようなものなのだ。 例えば旅行に行くと決めることで起こる期待と不安があるとしたら、その「どちらも」が心理的要因となるということだ。 だからそんなことがどうなのかともう一つ踏み込んだ上で起こる、心理的、身体的、そして行動面でも起こる反応が病的で ある場合改めて旅行自体をどうするか、といった考察になる。その経緯があって初めてこの旅行がストレス要因なので旅行は取りやめたいなどとと主張するものではないか。そういった考察を経ないで、旅行が面倒だからとか違う次元のことを主張する際の表現として「ストレス」と言っているかのような誤用があまりに多い。言葉としては正確なのかもしれないけれど、他者に対応を求めて主張するようなほどのことではない。それはただの個人的感想にすぎないからである。つまり、そのことによって起こる問題はきちんと自分で対処することなのである 他者に対応を求めなきゃならないようなストレスというのは、一般的な暮らしや業務上起こりうる範囲ではないものを指す、ということくらいは知っていてほしいし、それを主張する際には然るべき客観的な診断というものが当然必要になる。 と、こんなことを言っている自分にすでに嫌気がしているのは、こうまで言わなきゃならなくなった背景と、もっともっと理解がなかった時代の苦難をわたしは体験的に知っているからである。 本当に辛い最中にいるものにとってストレスとは、気づけば重すぎるものとしてそこにあるものであり、なかなか簡単に武器と変えられるものではない。そういった気づきに自らが至るまでに、中には命を落としてしまう人も出るほどの重荷なのである。体験的に知らない人は、このことを無理やり矮小化せずそのまま心に入れてほしい。こういうことがあるのかと。無理やりわかったふりはしなくていいからそういうことそのものをインストールしてほしいのだ。 生きていく上で、自分の思うように行かないことの全てを目の前から排除していく考...

日々の考察vol. 24 ハラスメント加害者に望むこと

最近、あちこちに流出した官僚の始末が非常に悪く、とてもとても日本の政治によくない出来事をもたらしている。 今話題の兵庫県知事も官僚の天下りでもあるし、他にも地方自治があちこちで悲鳴を上げ始めているところには、本当によく元官僚が絡んでいる。 彼らは、他の立候補者との差別化を図るときに、「インテリっぽさ」を武器にしがちで「さすが頭がいいのですね」と言われることも多い。実際は中身があろうがなかろうが、しつこく屁理屈を繰り広げてでも食い下がったりするので余計に目立つだけなのだ。 旧態依然とした慣例に基づきがちなおっさんの政治やその世界に怯まず切り込んでいくその姿に、かっこよさと憧れを感じて淡い期待をしてしまう若い人たちを支持層とするのだ。 しかし、考えてみてほしい。 彼らは「官僚」であった人たちである。官僚の仕事とは 今どんな環境でおこなわれているのか。一体彼らはどこからきてそこはどんなところだったのか。 霞ヶ関というところは、今の日本の公務員の中でもずば抜けてブラックな職場である。長い受験戦争をトップでくぐり抜けてきた彼らは、そこで「働くとはこういうものか」と仕込まれる。この国では珍しいほどに高いプライドを持ちながら、「政治家」というだけのいい加減なおっさんの我儘に付き合わされるのである。一般的にそんな理不尽な職場ならとうに改善されていてもおかしくないのだけれど、なかなかそうはいかない。 愚民のように制度そのものをひっくり返したりすることを、エリート官僚は望まないからだ。彼らは元々ある型を崩すような考え方はしないのである。なぜなら、政治(型)を動かしているのは実際には自分達なんだという自負があるからである。 かくして出来上がった「官僚崩れ」というか官僚の天下りとなる人材の歪みは生じているのではないか。 国政に携わる政治家のように横柄で、とんでもないエリート意識に支えられたプライド。もうすでにやりにくいタイプである。 わたしは常々人がその人にとって適切なプライドを保ち、他者のプライドを尊重する ことはどういったことか、とよく考える。 そういった場面では、多様性に基づくその人それぞれの事情を踏まえたものが想定されるが、それと違って先ほどから述べている官僚のプライドというのは、どうも非常に画一的な気がしてならない。自らを自動的にその集団においてずば抜けたエリートと振り分ける設定...

VOL.23  父が死んだ日

  今日、父が亡くなったらしい。メールで知った。 変な気持ちだ。 ドキドキと動悸がしたし、オロオロと何をしたらいいかわからない。何をしたいのかしたくないのか、わからない。 あー、ほんまにうちはいつも突然だなあとか、式に行けば妹に会って何を言われるかわからないし怖いなあと思ったり、どうしたものかという戸惑いと、嫌すぎてスルーしたい思いと、これからまた色々と面倒なことが起こりそうな嫌すぎる予感と。 場違いなことであるのは承知しているが、何もわざわざ父の葬式だからと、妹に再会したくなさすぎて、できればやはりわたしは妹に会わないで済ませたい。 ああ、わたしの人生で一番大変だった人が亡くなったのかあと思う一種感慨深いような気持ちと、その父の若い頃とそっくりになってしまった妹にあうことでまた繰り返してしまう恐怖と。 ある友人が圧倒的にシビアな言葉をそんな揺れてるわたしにくれた。 「ほっといたらええ」 もちろんわたしの家族のこれまでをよく知っているからこその言葉なので、決してただの偶然に出た悪口ではないのだけれど、わたしの中にもある残酷で辛辣な部分をこうやって引き受けてくれてよかった。 で、わたしはどうしたいのかとかいうこと以前に、実は今、びっくりし過ぎて感情や感覚がかなりふわふわしているままでそれがなかなか治らない。 きっとそれなりの言葉のやりとりはできるんだけど、自覚としてはかなり薄い感じ。こういう解離症状のようなものは久しぶりなのだ。 困ったな、そういう言葉ばかりが浮かぶ。 人が亡くなるといろんな物事が怒涛の勢いで進むのは誰でもそうなのだけど、なぜかわたしの実家は突然亡くなるパターンが多いので、今回もまた父の死を取り巻く物事についていけていない自分自身にただ困ったなと呟くしかできない。 わたしの実家にわたしの存在はあったのだろうか。 父の中にもあったのだろうか。 わたしは実家でいつしか全員のサンドバッグだった。 そんなわたしが、父が亡くなったと言ってわざわざできることはない気がする。 「理想的な」娘像としては、それでも「わたしは長女なんですから」とか「産んで育ててくれてどうのこうの」と心にもないことを言いに行くことを求めるんだろうけど、 サンドバッグにしていいと思われていた娘にもそれは有効なんだろうか。 普通に、ただの悼む娘、ではいられない気持ちがある。 一つだけ今...

日々の考察 vol.22 虐待って終わるのか。どうやったら終わるのか。

最近とてもえげつないニュースが多い。 どうやらあっちこっちの公務員の方々が無茶をしているようで、記者会見ばかりが目につく。 あっちでペコペコ、こっちでペコペコ、合間に開き直るやつやら、おっさんというのは本当に人の事情より自分の事情なんだなと思う。 ここのところ、虐待によって起きるニュースも多く、その度に児相だの施設管理者だののおっさんが似たようなことを言い訳しながら謝罪しているのだ。つくづく奇妙な時代である。虐待はかなり熟練の第三者によって判断されてしまうくせに、その判断の基準は被虐待者の気持ちによるという責任逃れな構図があるから、結果的になかなかいい加減なことになり、結局悲劇は起こるべくして起こる。こういった相談機関は、すぐに「業務としての関わりの限界」を言い訳にするが、そのような方は、そもそもそのような職業に向かない。自分の立場のために判断することを嫌うような大人が子供を助けることは無理なのだ。後から悔やむことは誰でもできるが、命を救うことの責任が取れないなら、そもそもいない方がいい。 業務の前に一人の人間であることを忘れてしまうような人は福祉業界にいてはいけないのだ。 これが公務員というものかと実に情けない。自分の愚かさを競い合ってどうする。なぜおっさんにはまともな羞恥心もないのか。 虐待事案において、正直言って自分で今虐待を受けていると自覚できる人は大人でも少ないのではないだろうか。やっている側もそうかもしれないけれど。 本人としては、ただそのようなものとひたすら教えられるとともに、圧倒的な受け身でしかないからだ。だいたいその空間には、真っ当な常識的モラルはないのだ。だから良識ある第三者がその常識的モラルにおいて介入して支援しなければ助けられないのだ。ややこしい理屈を捏ねていることと命を助けることはどちらが優先されるか、それこそ本来悩むまでもないことのはずなのだ。つまり根本的に命を助けない理由というのはありえないからだ。 さてわたしの育った環境は、その点においてとても酷かったみたいだ。 そんな過去の一コマを話すにしても、毎回毎回「実際あったよりひどく話していないだろうか?」とわたしは自問自答する。表現し難い暴露に伴う罪悪感や、この期に及んで事態を矮小化しなきゃという気持ちが瞬時に働き、それが実はとても疲れるのだ。自分の中の気持ちがとても巨大な綱引きをするみた...